ぜしづか》にして、世は盛《さか》りとこそは見ゆれども、入道相國が多年の非道によりて、天下の望み已《すで》に離れ、敗亡の機はや熟してぞ見えし。今にも蛭《ひる》が小島《こじま》の頼朝にても、筑波《つくば》おろしに旗揚《はたあ》げんには、源氏譜代の恩顧の士は言はずもあれ、苟《いやしく》も志を當代に得ず、怨みを平家《へいけ》に銜《ふく》める者、響の如く應じて關八州は日ならず平家の有《もの》に非ざらん。萬一斯かる事あらんには、大納言殿(宗盛)は兄の内府にも似ず、暗弱《あんじやく》の性質《うまれつき》なれば、素《もと》より物の用に立つべくもあらず。御子|三位《さんみ》の中將殿(維盛)は歌道《かだう》より外に何長《なにちやう》じたる事なき御身なれば、紫宸殿《ししいでん》の階下に源家《げんけ》の嫡流《ちやくりう》と相挑《あひいど》みし父の卿《きやう》の勇膽ありとしも覺えず。頭《とう》の中將殿(重衡)も管絃《くわんげん》の奏《しらべ》こそ巧《たく》みなれ、千軍萬馬の間に立ちて采配《さいはい》とらん器《うつは》に非ず。只々數多き公卿《くげ》殿上人《てんじやうびと》の中にて、知盛《とももり》、教經《のりつね》の二人こそ天晴《あつぱれ》未來事《みらいこと》ある時の大將軍と覺ゆれども、これとても螺鈿《らでん》の細太刀《ほそだち》に風雅《ふうが》を誇る六波羅上下の武士を如何にするを得べき。中には越中次郎兵衞盛次《ゑつちゆうのじらうびやうゑもりつぐ》、上總五郎兵衞忠光、惡七兵衞景清《あくしちびやうゑかげきよ》なんど、名だたる剛者《がうのもの》なきにあらねど、言はば之れ匹夫《ひつぷ》の勇《ゆう》にして、大勢《たいせい》に於て元《もと》より益《えき》する所なし。思へば風前《ふうぜん》の燈《ともしび》に似たる平家の運命かな。一門|上下《しやうか》花《はな》に醉《ゑ》ひ、月に興《きやう》じ、明日《あす》にも覺《さ》めなんず榮華の夢に、萬代《よろづよ》かけて行末祝ふ、武運の程ぞ淺ましや。
入道ならぬ元の瀧口は平家の武士。忍辱《にんにく》の衣も主家興亡の夢に襲《おそ》はれては、今にも掃魔《さうま》の堅甲《けんかふ》となりかねまじき風情《ふぜい》なり。
第二十五
其年も事なく暮れて、明《あ》くれば治承四年、淨海《じようかい》が暴虐《ばうぎやく》は猶ほ已《や》まず、殿《でん》とは名のみ、蜘手《くもで》結びこめぬばかりの鳥羽殿《とばでん》には、去年《こぞ》より法皇を押籠《おしこ》め奉るさへあるに、明君《めいくん》の聞え高き主上《しゆじやう》をば、何の恙《つゝが》もお在《は》さぬに、是非なくおろし參らせ、清盛の女が腹に生れし春宮《とうぐう》の今年《ことし》僅に三歳なるに御位を讓らせ給ふ。あはれ聞きも及ばぬ奇怪の讓位かなとおもはぬ人ぞなかりける。一秋毎《ひとあきごと》に細りゆく民の竈《かまど》に立つ烟、それさへ恨みと共に高くは上《のぼ》らず。野邊《のべ》の草木《くさき》にのみ春は歸れども、世はおしなべて秋の暮、枯枝《かれえだ》のみぞ多かりける。元より民の疾苦《しつく》を顧みるの入道ならねば、野に立てる怨聲を何處《いづこ》の風とも氣にかけず、或は嚴島行幸に一門の榮華を傾け盡し、或は新都の經營に近畿《きんき》の人心を騷がせて少しも意に介せず。世を恨み義に勇みし源三位《げんざんみ》、數もなき白旗|殊勝《しゆしよう》にも宇治川の朝風《あさかぜ》に飜へせしが、脆《もろ》くも破れて空しく一族の血汐《ちしほ》を平等院《びやうどうゐん》の夏草《なつくさ》に染めたりしは、諸國源氏が旗揚《はたあげ》の先陣ならんとは、平家の人々いかで知るべき。高倉《たかくら》の宮《みや》の宣旨《せんじ》、木曾《きそ》の北《きた》、關《せき》の東《ひがし》に普ねく渡りて、源氏|興復《こうふく》の氣運漸く迫れる頃、入道は上下萬民の望みに背《そむ》き、愈々都を攝津の福原に遷《うつ》し、天下の亂れ、國土の騷ぎを露《つゆ》顧みざるは、抑々《そも/\》之れ滅亡を速むるの天意か。平家の末はいよ/\遠からじと見えにけり。
右兵衞佐《うひやうゑのすけ》(頼朝)が旗揚《はたあげ》に、草木と共に靡きし關八州《くわんはつしう》、心ある者は今更とも思はぬに、大場《おほば》の三郎が早馬《はやうま》ききて、夢かと驚きし平家の殿原《とのばら》こそ不覺《ふかく》なれ。討手《うつて》の大將、三位中將|維盛卿《これもりきやう》、赤地《あかぢ》の錦の直垂《ひたゝれ》に萌黄匂《もえぎにほひ》の鎧は天晴《あつぱれ》平門公子《へいもんこうし》の容儀《ようぎ》に風雅の銘を打つたれども、富士河の水鳥《みづとり》に立つ足もなき十萬騎は、關東武士の笑ひのみにあらず。前の非《ひ》を悟りて舊都に歸り、さては奈良|炎上《えんじやう》の無道《むだう》に餘忿《よ
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