ふん》を漏《も》らせども、源氏の勢は日に加はるばかり、覺束なき行末を夢に見て其年も打ち過ぎつ。治承五年の春を迎ふれば、世愈々亂れ、都に程なき信濃には、木曾の次郎が兵を起して、兵衞佐と相應《あひおう》じて其勢ひ破竹《はちく》の如し。傾危《けいき》の際、老いても一門の支柱《しちゆう》となれる入道相國は折柄《をりから》怪しき病ひに死し、一門狼狽して爲す所を知らず。墨股《すのまた》の戰ひに少しく會稽の恥を雪《すゝ》ぎたれども、新中納言(知盛)軍機《ぐんき》を失《しつ》して必勝の機を外《はづ》し、木曾の壓《おさへ》と頼みし城《じやう》の四郎が北陸《ほくりく》の勇を擧《こぞ》りし四萬餘騎、餘五將軍《よごしやうぐん》の遺武《ゐぶ》を負ひながら、横田河原《よこたがはら》の一戰に脆《もろ》くも敗れしに驚きて、今はとて平家最後の力を盡して北に打向ひし十五萬餘騎、一門の存亡を賭《と》せし倶利加羅《くりから》、篠原《しのはら》の二戰に、哀れや殘り少なに打ちなされ、背疵《せきず》抱《かゝ》へて、すごすご都に歸り來りし、打漏《うちもら》されの見苦《みぐる》しさ。木曾は愈々勢ひに乘りて、明日《あす》にも都に押寄せんず風評《ふうひやう》、平家の人々は今は居ながら生《い》ける心地もなく、然《さ》りとて敵に向つて死する力もなし。木曾をだに支《さゝ》へ得ざるに、關東の頼朝來らば如何にすべき、或は都を枕にして討死すべしと言へば、或は西海《さいかい》に走つて再擧《さいきよ》を謀《はか》るべしと説き、一門の評議まち/\にして定まらず。前には邦家の急《きふ》に當りながら、後《うしろ》には人心の赴く所《ところ》一ならず、何れ變らぬ亡國の末路《まつろ》なりけり。
平和の時こそ、供花燒香に經を飜して、利益平等《りやくびやうどう》の世とも感ぜめ、祖先十代と己が半生の歴史とを刻《きざ》みたる主家《しゆか》の運命|日《ひ》に非《ひ》なるを見ては、眼を過ぐる雲煙《うんえん》とは瀧口いかで看過するを得ん。人の噂に味方《みかた》の敗北《はいぼく》を聞く毎《ごと》に、無念《むねん》さ、もどかしさに耐へ得ず、雙の腕を扼《やく》して法體《ほつたい》の今更變へ難きを恨むのみ。
或日瀧口、閼伽《あか》の水《みづ》汲《く》まんとて、まだ明《あ》けやらぬ空に往生院を出でて、近き泉の方に行きしに、都《みやこ》六波羅わたりと覺しき方に、一道の火焔《くわえん》天《てん》を焦《こが》して立上《たちのぼ》れり。そよとだに風なき夏の曉に、遠く望めば只々|朝紅《あさやけ》とも見ゆべかんめり。風靜《かぜしづか》なるに、六波羅わたり斯かる大火を見るこそ訝《いぶか》しけれ。いづれ唯事《たゞごと》ならじと思へば何となく心元《こゝろもと》なく、水汲みて急《いそ》ぎ坊に歸り、一杖一鉢、常の如く都をさして出で行きぬ。
第二十六
瀧口入道、都に來て見れば、思ひの外なる大火にて、六波羅、池殿《いけどの》、西八條の邊《あたり》より京白川《きやうしらかは》四五萬の在家《ざいけ》、方《まさ》に煙の中にあり。洛中《らくちゆう》の民はさながら狂《きやう》せるが如く、老を負ひ幼を扶けて火を避くる者、僅の家財を携へて逃ぐる者、或は雜沓《ざつたふ》の中に傷《きずつ》きて助けを求むる者、或は連れ立ちし人に離れて路頭《ろとう》に迷へる者、何れも容姿を取り亂して右に走り左に馳せ、叫喚呼號の響、街衢に充ち滿ちて、修羅《しゆら》の巷《ちまた》もかくやと思はれたり。只々見る幾隊の六波羅武者、蹄の音高く馳せ來りて、人波《ひとなみ》打《う》てる狹き道をば、容赦《ようしや》もなく蹴散《けちら》し、指して行衞は北鳥羽の方、いづこと問へど人は知らず、平家一門の邸宅《ていたく》、武士の宿所《しゆくしよ》、殘りなく火中にあれども消し止めんとする人の影見えず。そも何事の起れるや、問ふ人のみ多くして、答ふる者はなし。全都《ぜんと》の民は夢に夢見る心地して、只々心安からず惶《おそ》れ惑《まど》へるのみ。
瀧口、事の由を聞かん由もなく、轟《とゞろ》く胸を抑《おさ》へつゝ、朱雀《すざく》の方《かた》に來れば、向ひより形亂《かたちみだ》せる二三人の女房の大路《おほぢ》を北に急ぎ行くに、瀧口呼留めて事の由を尋ぬれば、一人の女房立留りて悲しげに、『未だ聞かれずや、大臣殿(宗盛)の思召《おぼしめし》にて、主上《しゆじやう》を始め一門殘らず西國《さいごく》に落ちさせ給ふぞや、もし縁《ゆかり》の人ならば跡より追ひつかれよ』。言捨《いひす》てて忙しげに走り行く。瀧口、あッとばかりに呆れて、さそくの考も出でず、鬼の如き兩眼より涙をはら/\と流し、恨めしげに伏見《ふしみ》の方を打ち見やれば、明けゆく空に雲行《くもゆき》のみ早し。
榮華の夢早や覺《さ》めて、沒落の悲しみ方《まさ》に來り
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