果《ぢよくわ》、いづれ迷は同じ流轉《るてん》の世事《せじ》、今は言ふべきことありとも覺えず。只々此上は夜毎《よごと》の松風《まつかぜ》に御魂《みたま》を澄《すま》されて、未來《みらい》の解脱《げだつ》こそ肝要《かんえう》なれ。仰ぎ願くは三世十方の諸佛、愛護《あいご》の御手《おんて》を垂れて出離《しゆつり》の道を得せしめ給へ。過去精麗《くわこしやうりやう》、出離生死《しゆつりしやうじ》、證大菩提《しようだいぼだい》』。生《い》ける人に向へるが如く言ひ了りて、暫し默念の眼を閉ぢぬ。花の本《もと》の半日の客《かく》、月の前の一夜の友も、名殘は惜しまるゝ習ひなるに、一向所感の身なれば、先の世の法縁も淺からず思はれ、流石《さすが》の瀧口、限《かぎ》りなき感慨|胸《むね》に溢《あふ》れて、轉々《うたゝ》今昔《こんじやく》の情《じやう》に堪へず。今かゝる哀れを見んことは、神ならぬ身の知る由もなく、嵯峨の奧に夜半《よは》かけて迷ひ來りし時は我れ情なくも門《かど》をば開《あ》けざりき。恥をも名をも思ふ遑《いとま》なく、樣を變へ身を殺す迄の哀れの深さを思へば、我れこそ中々に罪深かりけれ。あゝ横笛、花の如き姿|今《いま》いづこにある、菩提樹《ぼだいじゆ》の蔭《かげ》、明星《みやうじやう》額《ひたひ》を照《て》らす邊《ほとり》、耆闍窟《ぎしやくつ》の中《うち》、香烟《かうえん》肘《ひぢ》を繞《めぐ》るの前、昔の夢を空《あだ》と見て、猶ほ我ありしことを思へるや否。逢ひ見しとにはあらなくに、別れ路《ぢ》つらく覺ゆることの、我れながらb《いぶか》しさよ。思ひ胸に迫りて、吁々《あゝ》と吐《は》く太息《といき》に覺えず我れに還《かへ》りて首《かうべ》を擧《あ》ぐれば日は半《なかば》西山《せいざん》に入りて、峰の松影色黒み、落葉《おちば》を誘《さそ》ふ谷の嵐、夕ぐれ寒く身に浸《し》みて、ばら/\と顏打つものは露か時雨《しぐれ》か。
第二十四
其の年の秋の暮つかた、小松の内大臣重盛、豫《かね》ての所勞《しよらう》重《おも》らせ給ひ、御年四十三にて薨去あり。一門の人々、思顧の侍《さむらひ》は言ふも更なり、都も鄙もおしなべて、悼《いた》み惜《を》しまざるはなく、町家は商を休み、農夫は業を廢して哀號《あいがう》の聲《こゑ》到る處に充《み》ちぬ。入道相國《にふだうしやうこく》が非道《ひだう》の擧動《ふるまひ》に御恨《おんうら》みを含みて時の亂《みだれ》を願はせ給ふ法住寺殿《ほふぢゆうじでん》の院《ゐん》と、三代の無念を呑みて只《ひた》すら時運の熟すを待てる源氏の殘黨のみ、内府《ないふ》が遠逝《ゑんせい》を喜べりとぞ聞えし。
士は己れを知れる者の爲に死せんことを願ふとかや。今こそ法體《ほつたい》なれ、ありし昔の瀧口が此君《このきみ》の御爲《おんため》ならばと誓ひしは天《あめ》が下に小松殿|只《たゞ》一人。父祖《ふそ》十代の御恩《ごおん》を集めて此君一人に報《かへ》し參らせばやと、風の旦《あした》、雪の夕《ゆふべ》、蛭卷《ひるまき》のつかの間《ま》も忘るゝ隙《ひま》もなかりしが、思ひもかけぬ世の波風《なみかぜ》に、身は嵯峨の奧に吹き寄せられて、二十年來の志《こゝろざし》も皆|空事《そらごと》となりにける。世に望みなき身ながらも、我れから好める斯かる身の上の君の思召《おぼしめし》の如何あらんと、折々《をり/\》思ひ出だされては流石《さすが》に心苦《こゝろぐる》しく、只々長き將來《ゆくすゑ》に覺束《おぼつか》なき機會《きくわい》を頼みしのみ。小松殿|逝去《せいきよ》と聞きては、それも協《かな》はず、御名殘《おんなごり》今更《いまさら》に惜《を》しまれて、其日は一日|坊《ばう》に閉籠《とぢこも》りて、内府が平生など思ひ出で、※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、76−2]向三昧《ゑかうざんまい》に餘念なく、夜に入りては讀經の聲いと蕭《しめ》やかなりし。
先には横笛、深草の里に哀れをとゞめ、今は小松殿、盛年の御身に世をかへ給ふ。彼を思ひ是を思ふに、身一つに降《ふ》りかゝる憂《う》き事の露しげき今日《けふ》此ごろ、瀧口三|衣《え》の袖を絞りかね、法體《ほつたい》の今更《いまさら》遣瀬《やるせ》なきぞいぢらしき。實《げ》にや縁に從つて一念|頓《とみ》に事理《じり》を悟れども、曠劫《くわうごふ》の習氣《しふき》は一朝一夕に淨《きよ》むるに由なし。變相殊體《へんさうしゆたい》に身を苦しめて、有無流轉《うむるてん》と觀《くわん》じても、猶ほ此世の悲哀に離《はな》れ得ざるぞ是非もなき。
徳を以て、將《はた》人を以て、柱とも石とも頼まれし小松殿、世を去り給ひしより、誰れ言ひ合はさねども、心ある者の心にかゝるは、同じく平家の行末なり。四方《よも》の波風靜《なみか
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