の曹司《ざうし》なりとかや』。『ナニ曹司とや、其の名は聞き知らずや』。『然《さ》れば、最《い》とやさしき名と覺えしが、何とやら、おゝ――それ慥《たしか》に横笛とやら言ひし。嵯峨の奧に戀人《こひびと》の住めると、人の話なれども、定かに知る由もなし。聞けば御僧の坊も同じ嵯峨なれば、若《も》し心當《こゝろあたり》の人もあらば、此事|傳《つた》へられよ。同じ世に在りながら、斯かる婉《あで》やかなる上※[#「※」は「くさかんむり」の下に「月+曷」、第3水準1−91−26、71−3]の樣を變へ、思ひ死《じに》するまでに情《つれ》なかりし男こそ、世に罪深《つみふか》き人なれ。他《あだ》し人の事ながら、誠なき男見れば取りも殺したく思はるゝよ』。餘所《よそ》の恨みを身に受けて、他とは思はぬ吾が哀れ、老いても女子は流石《さすが》にやさし。瀧口が樣見れば、先の快《こゝろよ》げなる氣色《けしき》に引きかへて、首《かうべ》を垂れて物思《ものおも》ひの體《てい》なりしが、やゝありて、『あゝ餘《あま》りに哀れなる物語に、法體《ほつたい》にも恥ぢず、思はず落涙に及びたり。主婦《あるじ》が言《ことば》に從ひ、愚僧は之れより其の戀塚とやらに立寄りて、暫し※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、71−8]向《ゑかう》の杖を停《とど》めん』。
 網代《あじろ》の笠に夕日《ゆふひ》を負《お》うて立ち去る瀧口入道が後姿《うしろすがた》、頭陀《づだ》の袋に麻衣《あさごろも》、鐵鉢を掌《たなごゝろ》に捧《さゝ》げて、八つ目のわらんづ踏みにじる、形は枯木《こぼく》の如くなれども、息《いき》ある間は血もあり涙もあり。

   第二十三

 深草の里に老婆が物語、聞けば他事《ひとごと》ならず、いつしか身に振りかゝる哀の露、泡沫夢幻《はうまつむげん》と悟りても、今更ら驚かれぬる世の起伏《おきふし》かな。樣を變へしとはそも何を觀じての發心《ほつしん》ぞや、憂ひに死せしとはそも誰れにかけたる恨みぞ。あゝ横笛、吾れ人共に誠の道に入りし上は、影よりも淡《あは》き昔の事は問ひもせじ語りもせじ、閼伽《あか》の水汲《みづく》み絶えて流れに宿す影留らず、觀經の音|已《や》みて梢にとまる響なし。いづれ業繋《ごふけ》の身の、心と違ふ事のみぞ多かる世に、夢中《むちゆう》に夢を喞《かこ》ちて我れ何にかせん。
 瀧口入道、横笛が墓に來て見れば、墓とは名のみ、小高く盛《も》りし土饅頭《どまんぢゆう》の上に一片の卒塔婆を立てしのみ。里人の手向けしにや、半《なかば》枯《か》れし野菊《のぎく》の花の仆れあるも哀れなり。四邊《あたり》は斷草離離として趾《あと》を着くべき道ありとも覺えず、荒れすさぶ夜々の嵐に、ある程の木々の葉吹き落とされて、山は面痩《おもや》せ、森は骨立《ほねだ》ちて目もあてられぬ悲慘の風景、聞きしに増りて哀れなり。ああ是れぞ横笛が最後の住家《すみか》よと思へば、流石《さすが》の瀧口入道も法衣《ほふえ》の袖を絞《しぼ》りあへず、世にありし時は花の如き艷《あで》やかなる乙女《をとめ》なりしが、一旦無常の嵐に誘《さそ》はれては、いづれ遁《のが》れぬ古墳の一墓の主《あるじ》かや。そが初めの内こそ憐れと思ひて香花《かうげ》を手向《たむ》くる人もあれ、やがて星移り歳經《としふ》れば、冷え行く人の情《なさけ》に隨《つ》れて顧みる人もなく、あはれ何れをそれと知る由もなく荒れ果てなんず、思へば果敢《はか》なの吾れ人が運命や。都大路《みやこおほぢ》に世の榮華を嘗《な》め盡《つく》すも、賤《しづ》が伏屋《ふせや》に畦《あぜ》の落穗《おちぼ》を拾《ひろ》ふも、暮らすは同じ五十年の夢の朝夕。妻子珍寶及王位《さいしちんぱうおよびわうゐ》、命終《いのちをは》る時に隨ふものはなく、野邊《のべ》より那方《あなた》の友とては、結脈《けちみやく》一つに珠數《じゆず》一聯のみ。之を想へば世に悲しむべきものもなし。
 瀧口|衣《ころも》の袖を打はらひ、墓に向つて合掌《がつしやう》して言へらく、『形骸《かたち》は良《よ》しや冷土の中に埋《うづも》れても、魂は定かに六尺の上に聞こしめされん。そもや御身と我れ、時を同うして此世に生れしは過世《すぐせ》何の因《いん》、何の果《くわ》ありてぞ。同じ哀れを身に擔《にな》うて、そを語らふ折もなく、世を隔て樣を異にして此の悲しむべき對面あらんとは、そも又何の業《ごふ》、何の報ありてぞ。我は世に救ひを得て、御身は憂《う》きに心を傷《やぶ》りぬ。思へば三界の火宅《くわたく》を逃《のが》れて、聞くも嬉しき眞《まこと》の道に入りし御身の、欣求淨土《ごんぐじやうど》の一念に浮世の絆《きづな》を解《と》き得ざりしこそ恨みなれ。戀とは言はず、情とも謂はず、遇《あ》ふや柳因《りういん》、別《わか》るゝや絮
前へ 次へ
全34ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高山 樗牛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング