ごしよ》の裏手の御溝端《みかはばた》を辿り行く骨格|逞《たくま》しき一個の武士あり。月を負ひて其の顏は定かならねども、立烏帽子に綾長《そばたか》の布衣《ほい》を着け、蛭卷《ひるまき》の太刀の柄太《つかふと》きを横《よこた》へたる夜目《よめ》にも爽《さはや》かなる出立《いでたち》は、何れ六波羅わたりの内人《うちびと》と知られたり。御溝を挾《はさ》んで今を盛りたる櫻の色の見て欲《ほ》しげなるに目もかけず、物思はしげに小手叉《こまぬ》きて、少しくうなだれたる頭の重げに見ゆるは、太息《といき》吐く爲にやあらん。扨ても春の夜の月花《つきはな》に換へて何の哀れぞ。西八條の御宴より歸り途《みち》なる侍《さむらひ》の一群二群《ひとむれふたむれ》、舞の評など樂げに誰憚《たれはゞか》らず罵り合ひて、果は高笑ひして打ち興ずるを、件の侍は折々耳|側《そばだ》て、時に冷《ひや》やかに打笑《うちゑ》む樣《さま》、仔細ありげなり。中宮の御所をはや過ぎて、垣越《かきごし》の松影《まつかげ》月を漏らさで墨の如く暗き邊《ほとり》に至りて、不圖《ふと》首を擧げて暫し四邊《あたり》を眺めしが、俄に心付きし如く早足に元來《もとき》し道に戻りける。西八條より還御せられたる中宮の御輿《おんこし》、今しも宮門を入りしを見、最《い》と本意なげに跡見送りて門前に佇立《たゝず》みける。後《おく》れ馳せの老女|訝《いぶか》しげに己れが容子《ようす》を打ち※[#「※」は「めへん+爭」、読みは「みまも」、第3水準1−88−85、8−9]《みまも》り居るに心付き、急ぎ立去らんとせしが、何思ひけん、つと振向《ふりむき》て、件の老女を呼止めぬ。
 何の御用と問はれて稍々、躊躇《ためら》ひしが、『今宵《こよひ》の御宴の終《はて》に春鶯囀を舞はれし女子《をなご》は、何れ中宮の御内《みうち》ならんと見受けしが、名は何と言はるゝや』。老女は男の容姿を暫し眺め居たりしが微笑《ほゝゑ》みながら、『扨も笑止の事も有るものかな、西八條を出づる時、色清《いろきよ》げなる人の妾を捉へて同じ事を問はれしが、あれは横笛《よこぶえ》とて近き頃|御室《おむろ》の郷《さと》より曹司《そうし》しに見えし者なれば、知る人なきも理《ことわり》にこそ、御身《おんみ》は名を聞いて何にし給ふ』。男はハツと顏赤らめて、『勝《すぐ》れて舞の上手《じやうず》なれば』。答ふる言葉聞きも了らで、老女はホヽと意味ありげなる笑《ゑみ》を殘して門内に走り入りぬ。
『横笛、横笛』、件の武士は幾度か獨語《ひとりご》ちながら、徐《おもむろ》に元來し方に歸り行きぬ。霞の底に響く法性寺《ほふしやうじ》の鐘の聲、初更《しやかう》を告ぐる頃にやあらん。御溝の那方《あなた》に長く曳ける我影に駭《おどろ》きて、傾く月を見返る男、眉太《まゆふと》く鼻隆《はなたか》く、一見|凜々《りゝ》しき勇士の相貌、月に笑めるか、花に咲《わら》ふか、あはれ瞼《まぶた》の邊《あたり》に一掬の微笑を帶びぬ。

   第三

 當時小松殿の侍に齋藤瀧口《さいとうのたきぐち》時頼と云ふ武士ありけり。父は左衞門|茂頼《もちより》とて、齡古稀《よはひこき》に餘れる老武者《おいむしや》にて、壯年の頃より數ケ所の戰場にて類稀《たぐひまれ》なる手柄《てがら》を顯はししが、今は年老たれば其子の行末を頼りに殘年を樂みける。小松殿は其功を賞《め》で給ひ、時頼を瀧口の侍に取立て、數多《あまた》の侍の中に殊に恩顧を給はりける。
 時頼|是《こ》の時年二十三、性《せい》濶達にして身の丈《たけ》六尺に近く、筋骨飽くまで逞《たくま》しく、早く母に別れ、武骨一邊の父の膝下《ひざもと》に養はれしかば、朝夕|耳《みゝ》にせしものは名ある武士が先陣|拔懸《ぬけが》けの譽《ほまれ》れある功名談《こうみやうばなし》にあらざれば、弓箭甲冑の故實《こじつ》、髻垂《もとどりた》れし幼時より劒《つるぎ》の光、弦《ゆづる》の響の裡に人と爲りて、浮きたる世の雜事《ざれごと》は刀の柄《つか》の塵程も知らず、美田《みた》の源次が堀川《ほりかは》の功名に現《うつゝ》を拔《ぬ》かして赤樫《あかがし》の木太刀を振り舞はせし十二三の昔より、空肱撫《からひぢな》でて長劒の輕きを喞《かこ》つ二十三年の春の今日《けふ》まで、世に畏ろしきものを見ず、出入《いでい》る息を除《のぞ》きては、六尺の體《からだ》、何處を膽と分つべくも見えず、實に保平《ほうへい》の昔を其儘の六波羅武士の模型なりけり。然《さ》れば小松殿も時頼を末頼母《すゑたのも》しきものに思ひ、行末には御子維盛卿の附人《つきびと》になさばやと常々目を懸けられ、左衞門が伺候《しこう》の折々に『茂頼、其方《そち》は善き悴《せがれ》を持ちて仕合者《しあはせもの》ぞ』と仰せらるゝを、七十の老父、曲《まが》りし背
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