も反《そ》らん計りにぞ嬉しがりける。
 時は治承《ぢしよう》の春、世は平家の盛、そも天喜《てんぎ》、康平《かうへい》以來九十年の春秋《はるあき》、都も鄙《ひな》も打ち靡きし源氏の白旗《しらはた》も、保元《ほうげん》、平治《へいぢ》の二度の戰《いくさ》を都の名殘に、脆くも武門の哀れを東海の隅に留めしより、六十餘州に到らぬ隈《くま》なき平家の權勢、驕《おご》るもの久しからずとは驕れるもの如何で知るべき。養和《やうわ》の秋、富士河の水禽《みづとり》も、まだ一年《ひととせ》の來《こ》ぬ夢なれば、一門の公卿殿上人《こうけいてんじやうびと》は言はずもあれ、上下の武士|何時《いつ》しか文弱《ぶんじやく》の流《ながれ》に染《そ》みて、嘗て丈夫《ますらを》の譽に見せし向ふ疵も、いつの間にか水鬢《みづびん》の陰《かげ》に掩《おほ》はれて、重《おも》きを誇りし圓打《まるうち》の野太刀《のだち》も、何時しか銀造《しろがねづくり》の細鞘に反《そり》を打たせ、清らなる布衣《ほい》の下に練貫《ねりぬき》の袖さへ見ゆるに、弓矢持つべき手に管絃の調《しらべ》とは、言ふもうたてき事なりけり。
 時頼|世《よ》の有樣を觀て熟々《つら/\》思ふ樣《やう》、扨も心得ぬ六波羅武士が擧動《ふるまひ》かな、父なる人、祖父なる人は、昔知らぬ若殿原に行末短き榮耀《ええう》の夢を貪らせんとて其の膏血はよも濺《そゝ》がじ。萬一|事有《ことあ》るの曉には絲竹《いとたけ》に鍛へし腕《かひな》、白金造《しろがねづくり》の打物《うちもの》は何程の用にか立つべき。射向《いむけ》の袖を却て覆ひに捨鞭《すてむち》のみ烈しく打ちて、笑ひを敵に殘すは眼《ま》のあたり見るが如し。君の御馬前に天晴《あつぱれ》勇士の名を昭《あらは》して討死《うちじに》すべき武士《ものゝふ》が、何處に二つの命ありて、歌舞優樂の遊に荒《すさ》める所存の程こそ知られね。――弓矢の外には武士の住むべき世ありとも思はぬ一徹の時頼には、兎角|慨《なげか》はしく、苦々《にが/\》しき事のみ耳目に觸れて、平和の世の中《なか》面白からず、あはれ何處にても一戰《ひといくさ》の起れかし、いでや二十餘年の風雨に鍛へし我が技倆を顯はして、日頃我れを武骨物《ぶこつもの》と嘲りし優長武士に一泡《ひとあわ》吹かせんずと思ひけり。衆人醉へる中に獨り醒むる者は容《い》れられず、斯かる氣質なれば時頼は自《おのづ》から儕輩《ひと/″\》に疎《うとん》ぜられ、瀧口時頼とは武骨者の異名《いみやう》よなど嘲り合ひて、時流外《なみはづ》れに粗大なる布衣を着て鐵卷《くろがねまき》の丸鞘を鴎尻《かもめじり》に横《よこた》へし後姿《うしろすがた》を、蔭にて指《ゆびさ》し笑ふ者も少からざりし。

            *        *
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 西八條の花見の宴に時頼も連《つらな》りけり。其夜|更闌《かうた》けて家に歸り、其の翌朝は常に似ず朝日影|窓《まど》に差込む頃やうやく臥床《ふしど》を出でしが、顏の色少しく蒼味《あをみ》を帶びたり、終夜《よもすがら》眠らでありしにや。
 此夜、御所の溝端に人跡絶えしころ、中宮の御殿の前に月を負ひて歩むは、紛《まが》ふ方なく先の夜に老女を捉へて横笛が名を尋ねし武士なり。物思はしげに御門の邊を行きつ戻りつ、月の光に振向ける顏見れば、まさしく齋藤瀧口時頼なりけり。

   第四

 物の哀れも是れよりぞ知る、戀ほど世に怪しきものはあらじ。稽古の窓に向つて三諦止觀《さんたいしくわん》の月を樂める身も、一|朝《てう》折りかへす花染《はなぞめ》の香《か》に幾年《いくとせ》の行業《かうげふ》を捨てし人、百夜《もゝよ》の榻《しぢ》の端書《はしがき》につれなき君を怨みわびて、亂れ苦《くるし》き忍草《しのぶぐさ》の露と消えにし人、さては相見ての後のたゞちの短きに、戀ひ悲みし永の月日を恨みて三|衣《え》一|鉢《ぱつ》に空《あだ》なる情《なさけ》を觀ぜし人、惟《おも》へば孰《いづ》れか戀の奴《やつこ》に非ざるべき。戀や、秋萩《あきはぎ》の葉末《はずゑ》に置ける露のごと、空《あだ》なれども、中に寫せる月影は圓《まどか》なる望とも見られぬべく、今の憂身《うきみ》をつらしと喞《かこ》てども、戀せぬ前の越方《こしかた》は何を樂みに暮らしけんと思へば、涙は此身の命なりけり。夕旦《ゆふべあした》の鐘の聲も餘所《よそ》ならぬ哀れに響く今日《けふ》は、過ぎし春秋《はるあき》の今更《いまさら》心なきに驚かれ、鳥の聲、蟲の音《ね》にも心|何《なに》となう動きて、我にもあらで情《なさけ》の外に行末もなし。戀せる今を迷《まよひ》と觀れば、悟れる昔の慕ふべくも思はれず、悟れる今を戀と觀れば、昔の迷こそ中々に樂しけれ。戀ほど世に訝《いぶか》しきものはあ
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