らじ。そも人、何を望み何を目的《めあて》に渡りぐるしき戀路《こひぢ》を辿るぞ。我も自ら知らず、只々朧げながら夢と現《うつゝ》の境を歩む身に、ましてや何れを戀の始終と思ひ分たんや。そも戀てふもの、何《いづ》こより來り何こをさして去る、人の心の隈は映《うつ》すべき鏡なければ何れ思案の外なんめり。
いかなれば齋藤瀧口、今更《いまさら》武骨者の銘打つたる鐵卷《くろがね》をよそにし、負ふにやさしき横笛の名に笑《ゑ》める。いかなれば時頼、常にもあらで夜を冒《をか》して中宮の御所《ごしよ》には忍べる。吁々いつしか戀の淵に落ちけるなり。
西八條の花見の席に、中宮の曹司横笛を一目見て時頼は、世には斯かる氣高《けだか》き美しき女子《をなご》も有るもの哉と心|竊《ひそか》に駭きしが、雲を遏《とゞ》め雲を※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、14−5]《めぐら》す妙《たへ》なる舞の手振《てぶり》を見もて行くうち、胸怪《むねあや》しう轟き、心何となく安からざる如く、二十三年の今まで絶えて覺《おぼえ》なき異樣の感情|雲《くも》の如く湧き出でて、例へば渚《なぎさ》を閉ぢし池の氷の春風《はるかぜ》に溶《と》けたらんが如く、若しくは滿身の力をはりつめし手足《てあし》の節々《ふし/″\》一時に緩《ゆる》みしが如く、茫然として行衞も知らぬ通路《かよひぢ》を我ながら踏み迷へる思して、果は舞《まひ》終り樂《がく》收まりしにも心付かず、軈て席を退《まか》り出でて何處ともなく出で行きしが、あはれ横笛とは時頼其夜初めて覺えし女子の名なりけり。
日來《ひごろ》快濶にして物に鬱する事などの夢にもなかりし時頼の氣風|何時《いつ》しか變りて、憂《うれ》はしげに思ひ煩《わづら》ふ朝夕の樣|唯《ただ》ならず、紅色《あかみ》を帶びしつや/\しき頬の色少しく蒼ざめて、常にも似で物言ふ事も稀になり、太息《といき》の數のみぞ唯ゝ増さりける。果は濡羽《ぬれは》の厚鬢《あつびん》に水櫛當《みづぐしあて》て、筈長《はずなが》の大束《おほたぶさ》に今樣の大紋《だいもん》の布衣《ほい》は平生の氣象に似もやらずと、時頼を知れる人、訝しく思はぬはなかりけり。
第五
打つて變りし瀧口が今日此頃《けふこのごろ》の有樣に、あれ見よ、當世嫌ひの武骨者《ぶこつもの》も一度は折らねばならぬ我慢なるに、笑止や日頃《ひごろ》吾等を尻目に懸けて輕薄武士と言はぬ計りの顏、今更|何處《どこ》に下げて吾等に對《むか》ひ得るなど、後指《うしろゆび》さして嘲り笑ふものあれども、瀧口少しも意に介せざるが如く、應對等は常の如く振舞ひけり。されど自慢の頬鬢|掻撫《かいな》づる隙《ひま》もなく、青黛の跡絶えず鮮かにして、萌黄《もえぎ》の狩衣《かりぎぬ》に摺皮《すりかは》の藺草履《ゐざうり》など、よろづ派手やかなる出立《いでたち》は人目に夫《それ》と紛《まが》うべくもあらず。顏容《かほかたち》さへ稍々|窶《やつ》れて、起居《たちゐ》も懶《ものう》きがごとく見ゆれども、人に向つて氣色《きしよく》の勝《すぐ》れざるを喞ちし事もなく、偶々《たま/\》病などなきやと問ふ人あれば、却つて意外の面地《おももち》して、常にも増して健かなりと答へけり。
皆是れ戀の業《わざ》なりとは、哀れや時頼未だ夢にも心づかず、我ともなく人ともあらで只々思ひ煩へるのみ。思ひ煩へる事さへも心自ら知らず、例へば夢の中に伏床《ふしど》を拔け出でて終夜出《よもすがらやま》の巓《いたゞき》、水の涯《ほとり》を迷ひつくしたらん人こそ、さながら瀧口が今の有樣に似たりとも見るべけれ。
人にも我にも行衞知れざる戀の夢路をば、瀧口何處のはてまで辿りけん、夕とも言はず、曉とも言はず、屋敷を出でて行先は己れならで知る人もなく、只々|門出《かどで》の勢ひに引きかへて、戻足《もどりあし》の打ち蕭《しお》れたる樣、さすがに遠路の勞《つかれ》とも思はれず。一月餘《ひとつきあまり》も過ぎて其年の春も暮れ、青葉の影に時鳥《ほとゝぎす》の初聲聞く夏の初めとなりたれども、かゝる有樣の悛《あらた》まる色だに見えず、はては十幾年の間、朝夕樂みし弓馬の稽古さえ自《おのづか》ら怠り勝になりて、胴丸《どうまる》に積もる埃《ほこり》の堆《うづたか》きに目もかけず、名に負へる鐵卷《くろがねまき》は高く長押《なげし》に掛けられて、螺鈿の櫻を散らせる黒鞘に摺鮫《すりざめ》の鞘卷《さやまき》指《さ》し添ヘたる立姿《たちすがた》は、若《も》し我ならざりせば一月前《ひとつきまへ》の時頼、唾も吐きかねざる華奢《きやしや》の風俗なりし。
されば變り果てし容姿に慣れて、笑ひ譏《そし》る人も漸く少くなりし頃、蝉聲《せみ》喧《かまびす》しき夏の暮にもなりけん。瀧口が顏愈々やつれ、頬肉は目立つまでに落ちて眉
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