は往生院と覺ゆれば、主の御身は、小松殿の御内なる齋藤瀧口殿にてはお在《は》さずや』。『如何にも某《それがし》が世に在りし時の名は齋藤瀧口にて候ひしが、そを尋ねらるゝ御身はそも何人《なんぴと》』。『妾《わらは》こそは中宮の曹司横笛と申すもの、隨意《まゝ》ならぬ世の義理に隔てられ、世にも厚き御情《おんなさけ》に心にもなき情《つれ》なき事の數々《かず/\》、只今の御身の上と聞き侍《はべ》りては、悲しさ苦《くる》しさ、女子《をなご》の狹き胸一つには納め得ず、知られで永く已《や》みなんこと口惜《くちを》しく、一《ひとつ》には妾が眞《まこと》の心を打明け、且つは御身の恨みの程を承はらん爲に茲まで迷ひ來りしなれ。こゝ開《あ》け汲ヨ瀧口殿』。言ふと其儘、門の扉《とびら》に身を寄《よ》せて、聲を潛《しの》びて泣き居たり。
瀧口はしばらく應《いら》へせず、やゝありて、『如何《いか》に女性《によしやう》、我れ世《よ》に在りし時は、御所《ごしよ》に然《さ》る人あるを知りし事ありしが、我が知れる其人は我れを知らざる筈なり、されば今宵《こよひ》我れを訪《おとづ》れ給へる御身は、我が知れる横笛にてはよもあらじ。良《よ》しや其人なりとても、此世の中に心は死して、殘る體は空蝉《うつせみ》の我れ、我れに恨みあればとて、そを言ふの要もなく、よし又人に誠あらばとて、そを聞かん願ひもなし。一切諸縁に離れたる身、今更ら返らぬ世の浮事《うきこと》を語り出でて何かせん。聞き給へや女性《によしやう》、何事も過ぎにし事は夢なれば、我れに恨みありとな思ひ給ひそ。己れに情《つれ》なきものの善知識となれる例《ためし》、世に少からず、誠に道に入りし身の、そを恨みん謂れやある。されば遇うて益なき今宵の我れ、唯々何事も言はず、此儘歸り給へ。二言とは申すまじきぞ、聞き分け給ひしか、横笛殿』。
第二十
因果の中に哀れを含みし言葉のふし/″\、横笛が悲しさは百千《もゝち》の恨みを聞くよりもまさり、『其の御語《おんことば》、いかで仇《あだ》に聞侍《きゝはべ》るべき、只々親にも許さぬ胸の中《うち》、女子の恥をも顧みず、聞え參らせんずるをば、聞かん願ひなしと仰せらるゝこそ恨みなれ。情《つれ》なかりし昔の報いとならば、此身を千千《ちゞ》に刻《きざ》まるゝとも露壓《つゆいと》はぬに、憖《なまじ》ひ仇《あだ》を情《なさけ》の御言葉は、心狹き妾に、恥ぢて死ねとの御事か。無情《つれな》かりし妾をこそ憎《にく》め、可惜《あたら》武士《ものゝふ》を世の外にして、樣を變へ給ふことの恨めしくも亦痛はしけれ。茲|開《あ》け給へ、思ひ詰《つ》めし一念、聞き給はずとも言はでは已《や》まじ。喃《のう》瀧口殿、ここ開け給へ、情なきのみが佛者《ぶつしや》かは』。喃々《のう/\》と門《かど》を叩きて、今や開《あ》くると待侘《まちわ》ぶれども、内には寂然として聲なし。やゝありて人の立居《たちゐ》する音の聞ゆるに、嬉《うれ》しやと思ひきや、振鈴の響起りて、りん/\と鳴り渡るに、是れはと駭く横笛が、呼べども叫べども答ふるものは庭の木立のみ。
月稍々西に傾きて、草葉に置ける露白く、桂川の水音|幽《かすか》に聞えて、秋の夜寒《よさむ》に立つ鳥もなき眞夜中頃《まよなかごろ》、往生院の門下に蟲と共に泣き暮らしたる横笛、哀れや、紅花緑葉の衣裳、涙と露に絞《しぼ》るばかりになりて、濡れし袂に裹《つゝ》みかねたる恨みのかず/\は、そも何處までも浮世ぞや。我れから踏《ふ》める己《おの》が影も、萎《しを》るゝ如く思《おも》ほえて、情《つれ》なき人に較《くら》べては、月こそ中々に哀れ深けれ。横笛、今はとて、涙に曇《くも》る聲《こゑ》張上《はりあ》げて、『喃《のう》、瀧口殿、葉末《はずゑ》の露とも消えずして今まで立ちつくせるも、妾《わらは》が赤心《まごゝろ》打明けて、許すとの御身が一言《ひとこと》聞かんが爲め、夢と見給ふ昔ならば、情《つれ》なかりし横笛とは思ひ給はざるべきに、など斯くは慈悲なくあしらひ給ふぞ、今宵ならでは世を換へても相見んことのありとも覺えぬに、喃《のう》、瀧口殿』。
春の花を欺く姿、秋の野風に暴《さら》して、恨みさびたる其樣は、如何なる大道心者にても、心動《こゝろうご》かんばかりなるに、峰の嵐に埋《うづも》れて嘆きの聲の聞えぬにや、鈴の音は調子少しも亂れず、行ひすましたる瀧口が心、飜るべくも見えざりけり。
何とせん術《すべ》もあらざれば、横笛は泣く/\元來《もとき》し路《みち》を返り行きぬ。氷の如く澄める月影に、道芝《みちしば》の露つらしと拂ひながら、ゆりかけし丈《たけ》なる髮、優に波打たせながら、畫にある如き乙女の歩姿《かちすがた》は、葛飾《かつしか》の眞間《まゝ》の手古奈《てこな》が昔|偲《しの》ばれて、斯くもあるべし
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