や。あはれ横笛、乙女心の今更に、命に懸けて思ひ決めしこと空《あだ》となりては、歸り路に足進まず、我れやかたき、人や無情《つれな》き、嵯峨の奧にも秋風吹けば、いづれ浮世には漏れざりけり。
第二十一
胸中|一戀字《いちこひじ》を擺脱《はいだつ》すれば、便《すなは》ち十分爽淨、十分自在。人生最も苦しき處、只々是れ此の心。然ればにや失意の情に世をあぢきなく觀じて、嵯峨の奧に身を捨てたる齋藤時頼、瀧口入道と法《のり》の名に浮世の名殘《なごり》を留《とゞ》むれども、心は生死《しやうじ》の境を越えて、瑜伽三密の行の外、月にも露にも唱ふべき哀れは見えず、荷葉の三衣、秋の霜に堪へ難けれども、一杖一鉢に法捨を求むるの外、他に望なし。實《げ》にや輪王《りんのう》位高《くらゐたか》けれども七寶《しつぱう》終《つひ》に身に添はず、雨露《うろ》を凌がぬ檐《のき》の下にも圓頓《ゑんどん》の花は匂ふべく、眞如《しんによ》の月は照らすべし。旦《あした》に稽古の窓に凭《よ》れば、垣を掠《かす》めて靡く霧は不斷の烟、夕《ゆふべ》に鑽仰《さんがう》の嶺《みね》を攀《よ》づれば、壁を漏れて照る月は常住《じやうぢゆう》の燭《ともしび》、晝は御室《おむろ》、太秦《うづまさ》、梅津の邊を巡錫《じゆんしやく》して、夜に入れば、十字の繩床《じようしやう》に結跏趺坐《けつかふざ》して※[#「※」は「俺」の「にんべん」に代えて「くちへん」、読みは「うん」、第3水準1−15−6、66−4]阿《うんあ》の行業《かうごふ》に夜の白むを知らず。されば僧坊に入りてより未だ幾日も過ぎざるに、苦行難業に色黒み、骨立ち、一目《ひとめ》にては十題判斷の老登科《らうとくわ》とも見えつべし。あはれ、厚塗《あつぬり》の立烏帽子に鬢を撫上《なであ》げし昔の姿、今安《いづ》くにある。今年二十三の壯年《わかもの》とは、如何にしても見えざりけり。
顧みれば瀧口、性質《こゝろ》にもあらで形容邊幅《けいようへんぷく》に心を惱《なや》めたりしも戀の爲なりき。仁王《にわう》とも組《くま》んず六尺の丈夫《ますらを》、體《からだ》のみか心さへ衰へて、めゝしき哀れに弓矢の恥を忘れしも戀の爲なりき。思ヘば戀てふ惡魔に骨髓深く魅入《みい》られし身は、戀と共に浮世に斃れんか、將《は》た戀と共に世を捨てんか、擇《えら》ぶベき途《みち》只々此の二つありしのみ。時頼|世《よ》を無常と觀じては、何恨むべき物ありとも覺えず、武士を去り、弓矢を捨て、君に離れ、親を辭し、一切衆縁を擧げ盡《つく》して戀てふ惡魔の犧牲に供《そな》へ、跡に殘るは天地の間に生れ出でしまゝの我身瀧口時頼、命《いのち》とともに受繼《うけつ》ぎし濶達《くわつたつ》の氣風《きふう》再び欄漫《らんまん》と咲き出でて、容《かたち》こそ變れ、性質《こゝろ》は戀せぬ前の瀧口に少しも違《たが》はず。名利《みやうり》の外に身を處《お》けば、自《おのづ》から嫉妬の念も起らず、憎惡《ぞうを》の情も萌《きざ》さず、山も川も木も草も、愛らしき垂髫《うなゐ》も、醜《みにく》き老婆も、我れに惠む者も、我れを賤しむ者も、我れには等しく可愛らしく覺えぬ。げに一視平等《いつしびやうどう》の佛眼《ぶつげん》には四海兄弟と見えしとかや。病めるものは之を慰め、貧しきものは之を分ち、心曲《こゝろまが》りて郷里の害を爲すものには因果應報の道理を諭《さと》し、凡《すべ》て人の爲め世の爲めに益あることは躊躇《たゆた》ふことなく爲《な》し、絶えて彼此《かれこれ》の差別《しやべつ》なし。然《さ》れば瀧口が錫杖の到る所、其風《そのふう》を慕ひ其徳を仰《あふ》がざるはなかりけり。或時は里の子供等を集めて、昔の剛者《つはもの》の物語など面白く言ひ聞かせ、喜び勇む無邪氣なる者の樣《さま》を見て呵々と打笑ふ樣、二十三の瀧口、何日《いつ》の間《ま》に習ひ覺えしか、さながら老翁の孫女を弄《もてあそ》ぶが如し。
斯くて風月《ふうげつ》ならで訪ふ人もなき嵯峨野の奧に、世を隔てて安らけき朝夕《あさゆふ》を樂しみ居《ゐ》しに、世に在りし時は弓矢の譽《ほまれ》も打捨《うちすて》て、狂ひ死《じに》に死なんまで焦《こが》れし横笛。親にも主《しゆう》にも振りかへて戀の奴《やつこ》となりしまで慕ひし横笛。世を捨て樣を變へざれば、吾から懸けし戀の絆《きづな》を解《と》く由もなかりし横笛。其の横笛の音づれ來しこそ意外なれ。然《さ》れど瀧口、口にくはへし松が枝の小搖《こゆる》ぎも見せず。見事《みごと》振鈴《しんれい》の響に耳を澄《す》まして、含識《がんしき》の流《ながれ》、さすがに濁らず。思へば悟道《ごだう》の末も稍々《やゝ》頼もしく、風白む窓に、傾く月を麾《さしまね》きて冷《ひやゝ》かに打笑《うちゑ》める顏は、天晴《あつぱれ》大道心者《だいだう
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