あざやか》なり。噂に聞きしは嵯峨の奧とのみ、何れの院とも坊とも知らざれば、何を便《たより》に尋ぬべき、燈《ともしび》の光を的《あて》に、數《かず》もなき在家《ざいけ》を彼方《あなた》此方《こなた》に彷徨《さまよ》ひて問ひけれども、絶えて知るものなきに、愈々心惑ひて只々茫然と野中《のなか》に彳《たゝず》みける。折から向ふより庵僧とも覺しき一個《ひとり》の僧の通りかゝれるに、横笛、渡《わたり》に舟の思ひして、『慮外《りよぐわい》ながら此のわたりの庵《いほり》に、近き頃|樣《さま》を變《か》へて都より來られし、俗名《ぞくみやう》齋藤時頼と名告《なの》る年壯《としわか》き武士のお在《は》さずや』。聲震《こゑふる》はして尋ぬれば、件の僧は、横笛が姿を見て暫《しば》し首傾《くびかたむ》けしが、『露しげき野を女性《によし竄、》の唯々一人、さても/\痛はしき御事や。げに然《さ》る人ありとこそ聞きつれど、まだ其人に遇はざれば、御身が尋ぬる人なりや、否やを知りがたし』。『して其人は何處《いづこ》にお在《は》する』。『そは此處《こゝ》より程|遠《とほ》からぬ往生院《わうじやうゐん》と名《なづ》くる古き僧庵に』。
 僧は最《い》と懇《ねんご》ろに道を教ふれば、横笛|世《よ》に嬉しく思ひ、禮もいそ/\別れ行く後影《うしろかげ》、鄙には見なれぬ緋の袴に、夜目にも輝く五柳の一重《ひとへ》。件の僧は暫したヽずみて訝しげに見送れば、焚きこめし異香《いきやう》、吹き來《く》る風に時ならぬ春を匂はするに、俄に忌《いま》はしげに顏背《かほそむ》けて小走《こばし》りに立ち去りぬ。

   第十九

 斯くて横笛は教へられしまゝに辿り行けば、月の光に影暗《かげくら》き、杜《もり》の繁みを徹《とほ》して、微《かすか》に燈の光《ひかり》見ゆるは、げに古《ふ》りし庵室と覺しく、隣家とても有らざれば、闃《げき》として死せるが如き夜陰の靜けさに、振鈴《しんれい》の響《ひゞき》さやかに聞ゆるは、若しや尋ぬる其人かと思へば、思ひ設けし事ながら、胸轟きて急ぎし足も思はず緩《ゆる》みぬ。思へば現《うつゝ》とも覺えで此處までは來りしものの、何と言うて世を隔てたる門《かど》を敲《たゝ》かん、我が眞《まこと》の心をば如何なる言葉もて打ち明けん。うら若き女子《をなご》の身にて夜を冒《をか》して來つるをば、蓮葉《はすは》のものと卑下《さげす》み給はん事もあらば如何にすべき。將《はた》また、千束《ちづか》の文《ふみ》に一言《ひとこと》も返さざりし我が無情を恨み給はん時、いかに應《いら》へすべき、など思ひ惑ひ、恥かしさも催されて、御所《ごしよ》を拔出《ぬけい》でしときの心の雄々《をゝ》しさ、今更《いまさら》怪しまるゝばかりなり。斯くて果《は》つべきに非ざれば、辛《やうや》く我れと我身に思ひ決め、ふと首を擧ぐれば、振鈴の響耳に迫りて、身は何時《いつ》しか庵室の前に立ちぬ。月の光にすかし見れば、半ば頽《くづ》れし門の廂《ひさし》に蟲食《むしば》みたる一面の古額《ふるがく》、文字は危げに往生院と讀まれたり。
 横笛|四邊《あたり》を打ち見やれば、八重葎《やへむぐら》茂《しげ》りて門を閉ぢ、拂はぬ庭に落葉|積《つも》りて、秋風吹きし跡もなし。松の袖垣|隙《すきま》あらはなるに、葉は枯れて蔓《つる》のみ殘れる蔦《つた》生《は》えかゝりて、古き梢の夕嵐《ゆふあらし》、軒もる月の影ならでは訪ふ人もなく荒れ果てたり。檐《のき》は朽ち柱は傾き、誰れ棲みぬらんと見るも物憂《ものう》げなる宿《やど》の態《さま》。扨も世を無常と觀じては斯かる侘しき住居も、大梵高臺の樂みに換ヘらるゝものよと思へば、主《あるじ》の貴さも彌増《いやま》して、今宵《こよひ》の我身やゝ愧《はづ》かしく覺ゆ。庭の松が枝《え》に釣《つる》したる、仄《ほの》暗き鐵燈籠《かなどうろう》の光に檐前《のきさき》を照らさせて、障子一重の内には振鈴の聲、急がず緩まず、四曼不離の夜毎の行業《かうごふ》に慣れそめてか、籬《まがき》の蟲の駭《おどろ》かん樣も見えず。横笛今は心を定め、ほとほとと門《かど》を音づるれども答なし。玉を延《の》べたらん如き纖腕|痲《しび》るゝばかりに打敲《うちたゝ》けども應ぜん氣《け》はひも見えず。實《げ》に佛者は行《おこなひ》の半《なかば》には、王侯の召《めし》にも應ぜずとかや、我ながら心なかりしと、暫《しば》し門下に彳みて、鈴の音の絶えしを待ちて復《ふたゝ》び門《かど》を敲けば、内には主《あるじ》の聲として、『世を隔てたる此庵《このいほ》は、夜陰《やいん》に訪はるゝ覺《おぼえ》なし、恐らく門違《かどちがひ》にても候はんか』。横笛|潛《ひそ》めし聲に力を入れて、『大方《おほかた》ならぬ由あればこそ、夜陰に御業《おんげふ》を驚かし參らせしなれ。庵
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