すがに露とも消えやらず、我が思ふ人の忘れ難きを如何《いか》にせん。――など書き聯《つら》ねたるさへあるに、よしや墨染の衣に我れ哀れをかくすとも、心なき君には上《うは》の空とも見えん事の口惜《くちを》しさ、など硯の水に泪落《なみだお》ちてか、薄墨《うすずみ》の文字《もじ》定かならず。つらつら數ならぬ賤しき我身に引|較《くら》べ、彼を思ひ此を思へば、横笛が胸の苦しさは、譬へんに物もなし。世を捨てんまでに我を思ひ給ひし瀧口殿が誠の情《こゝろ》と竝ぶれば、重景が戀路は物ならず。況《ま》して日頃より文傳へする冷泉が、ともすれば瀧口殿を惡し樣《ざま》に言ひなせしは、我を誘《さそ》はん腹黒き人の計略《たくみ》ならんも知れず。斯く思ひ來れば、重景の何となう疎《うと》ましくなるに引き換へて、瀧口を憐れむの情愈々|切《せつ》にして、世を捨て給ひしも我れ故と思ふ心の身にひし/\と當りて、立ちても坐りても居堪《ゐたゝま》らず、窓打つ落葉のひゞきも、蟲の音《ね》も、我を咎むる心地して、繰擴《くりひろ》げし文《ふみ》の文字《もじ》は、宛然《さながら》我れを睨むが如く見ゆるに、目を閉ぢ耳を塞《ふさ》ぎて机の側らに伏し轉《まろ》べば、『あたら武士を汝故《そなたゆゑ》に』と、いづこともなく囁《さゝや》く聲、心の耳に聞えて、胸は刃に割《さ》かるゝ思ひ。あはれ横笛、一夜を惱み明かして、朝日《あさひ》影《かげ》窓に眩《まばゆ》き頃、ふらふらと縁前《えんさき》に出づれば、憎《に》くや、檐端《のきば》に歌ふ鳥の聲さへ、己《おの》が心の迷ひから、『汝《そなた》ゆゑ/\』と聞ゆるに、覺えず顏を反向《そむ》けて、あゝと溜息《ためいき》つけば、驚きて起《た》つ群雀《むらすゞめ》、行衞も知らず飛び散閧スる跡には、秋の朝風|音寂《おとさび》しく、殘んの月影|夢《ゆめ》の如く淡《あは》し。

   第十八

 女子《をなご》こそ世に優《やさ》しきものなれ。戀路は六《む》つに變れども、思ひはいづれ一つ魂に映《うつ》る哀れの影とかや。つれなしと見つる浮世に長生《ながら》へて、朝顏の夕《ゆふべ》を竣たぬ身に百年《もゝとせ》の末懸《すゑか》けて、覺束《おぼつか》なき朝夕《あさゆふ》を過すも胸に包める情の露のあればなり。戀かあらぬか、女子の命《いのち》はそも何に喩ふべき。人知らぬ思ひに心を傷《やぶ》りて、あはれ一山風《ひとやまかぜ》に跡もなき東岱《とうたい》前後《ぜんご》の烟と立ち昇るうら弱《わか》き眉目好《みめよ》き處女子《むすめ》は、年毎《としごと》に幾何ありとするや。世の隨意《まゝ》ならぬは是非もなし、只ゝいさゝ川、底の流れの通ひもあらで、人はいざ、我れにも語らで、世を果敢《はか》なむこそ浮世なれ。
 然《さ》れば横笛、我れ故に武士一人に世を捨てさせしと思へば、乙女心《をとめごゝろ》の一徹に思ひ返さん術《すべ》もなく、此の朝夕は只々泣き暮らせども、影ならぬ身の失せもやらず、せめて嵯峨の奧にありと聞く瀧口が庵室に訪《おとづ》れて我が誠の心を打明《うちあ》かさばやと、さかしくも思ひ決《さだ》めつ。誰彼時《たそがれどき》に紛《まぎ》れて只々一人、うかれ出でけるこそ殊勝《しゆしよう》なれ。
 頃は長月《ながつき》の中旬《なかば》すぎ、入日の影は雲にのみ殘りて野も出も薄墨《うすずみ》を流せしが如く、月未《つきいま》だ上《のぼ》らざれば、星影さへも最《い》と稀なり。袂《たもと》に寒き愛宕下《おたぎおろ》しに秋の哀れは一入《ひとしほ》深く、まだ露|下《お》りぬ野面《のもせ》に、我が袖のみぞ早や沾《うるほ》ひける。右近《うこん》の馬場を右手《めて》に見て、何れ昔は花園《はなぞの》の里、霜枯《しもが》れし野草《のぐさ》を心ある身に踏み摧《しだ》きて、太秦《うづまさ》わたり辿《たど》り行けば、峰岡寺《みねをかでら》の五輪の塔、夕《ゆふべ》の空に形のみ見ゆ。やがて月は上《のぼ》りて桂の川の水烟《みづけぶり》、山の端白《はしろ》く閉罩《とぢこ》めて、尋ぬる方は朧ろにして見え分《わ》かず。素《もと》より慣れぬ徒歩《かち》なれば、數《あまた》たび或は里の子が落穗《おちぼ》拾はん畔路《あぜみち》にさすらひ、或は露に伏す鶉《うづら》の床《とこ》の草村《くさむら》に立迷《たちまよ》うて、絲より細き蟲の音《ね》に、覺束なき行末を喞《かこ》てども、問ふに聲なき影ばかり。名も懷《なつか》しき梅津《うめづ》の里を過ぎ、大堰川《おほゐがは》の邊《ほとり》を沿《そ》ひ行けば、河風寒《かはかぜさむ》く身に染《し》みて、月影さへもわびしげなり。裾は露、袖は涙に打蕭《うちしを》れつ、霞める眼に見渡せば、嵯峨野も何時《いつ》しか奧になりて、小倉山《をぐらやま》の峰の紅葉《もみぢば》、月に黒《くろ》みて、釋迦堂の山門、木立《こだち》の間に鮮《
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