をはこぶは只々二人のみぞ殘りける。一人は齋藤瀧口にして、他の一人は足助二郎なり。横笛今は稍々《やゝ》浮世に慣れて、風にも露にも、餘所《よそ》ならぬ思ひ忍ばれ、墨染の夕《ゆふべ》の空に只々一人、連《つ》れ亙《わた》る雁の行衞|消《き》ゆるまで見送りて、思はず太息《といき》吐《つ》く事も多かりけり。二人の文を見るに付け、何れ劣らぬ情の濃《こまや》かさに心迷ひて、一つ身の何れを夫《それ》とも別ち兼ね、其れとは無しに人の噂に耳を傾くれば、或は瀧口が武勇|人《ひと》に勝《すぐ》れしを譽《ほ》むるもあれば、或は二郎が容姿《すがたかたち》の優しきを稱《たゝ》ふるもあり。共に小松殿の御内にて、世にも知られし屈指の名士。横笛愈々|心惑《こゝろまど》ひて、人の哀れを二重《ふたへ》に包みながら、浮世の義理の柵《しがらみ》に何方《いづかた》へも一言の應《いら》へだにせず、無情と見ん人の恨みを思ひやれば、身の心苦《こゝろぐる》しきも數ならず、夜半の夢|屡々《しば/\》駭きて、涙に浮くばかりなる枕邊《まくらべ》に、燻籠《ふせご》の匂ひのみ肅《しめ》やかなるぞ憐《あは》れなる。
 或日のこと。瀧口時頼が發心《ほつしん》せしと、誰れ言ふとなく大奧《おほおく》に傳はりて、さなきだに口善惡《くちさが》なき女房共、寄ると觸《さは》ると瀧口が噂に、横笛轟《とゞろ》く胸を抑《おさ》へて蔭ながら樣子を聞けば、情《つれ》なき戀路に世を果敢《はか》なみての業《わざ》と言ひ囃《はや》すに、人の手前も打ち忘れ、覺えず『そは誠か』と力を入れて尋ぬれば、女房共、『罪造りの横笛殿、可惜《あたら》勇士を木の端《はし》とせし』。人の哀れを面白げなる高笑《たかわらひ》に、是れはとばかり、早速《さそく》のいらへもせず、ツと己《おの》が部屋に走り歸りて、終日夜《ひねもすよ》もすがら泣き明かしぬ。
 
   第十七

『罪造りの横笛殿、あたら勇士に世を捨《す》てさせし』。あゝ半《なか》ば戲《たはむ》れに、半《なか》ば法界悋氣《ほふかいりんき》の此一語、横笛が耳には如何に響きしぞ。戀に望を失ひて浮世を捨てし男女の事、昔の物語に見し時は世に痛はしき事に覺えて、草色の袂に露の哀れを置きし事ありしが、猶《な》ほ現《うつゝ》ならぬ空事《そらごと》とのみ思ひきや、今や眼前かゝる悲しみに遇はんとは。而《しか》も世を捨てし其人は、命を懸けて己れを戀ひし瀧口時頼。世を捨てさせし其人は、可愛《いとし》とは思ひながらも世の關守《せきもり》に隔てられて無情《つれな》しと見せたる己れ横笛ならんとは。餘りの事に左右《とかう》の考も出でず、夢幻《ゆめまぼろし》の思ひして身を小机《こづくゑ》に打ち伏せば、『可惜《あたら》武士《ものゝふ》に世を捨てさせし』と怨むが如く、嘲けるが如き聲、何處《いづこ》よりともなく我が耳にひゞきて、其度毎《そのたびごと》に總身|宛然《さながら》水を浴《あ》びし如く、心も體も凍《こほ》らんばかり、襟を傳ふ涙の雫のみさすが哀れを隱し得ず。
 掻き亂れたる心、辛《やうや》う我に歸りて、熟々《つら/\》思へば、世を捨つるとは輕々しき戲事《ざれごと》に非ず。瀧口殿は六波羅上下に名を知られたる屈指の武士、希望に滿《み》てる春秋長き行末を、二十幾年の男盛《をとこざか》りに截斷《たちき》りて、樂しき此世を外に、身を佛門に歸し給ふ、世にも憐れの事にこそ。數多《あまた》の人に優《まさ》りて、君の御覺《おんおぼえ》殊に愛《めで》たく、一族の譽《ほまれ》を雙の肩に擔《にな》うて、家には其子を杖なる年老いたる親御《おやご》もありと聞く。他目《よそめ》にも數《かず》あるまじき君父の恩義|惜氣《をしげ》もなく振り捨てて、人の譏《そし》り、世の笑ひを思ひ給はで、弓矢とる御身に瑜伽《ゆが》三密の嗜《たしなみ》は、世の無常を如何に深く觀じ給ひけるぞ。ああ是れ皆此の身、此の横笛の爲《な》せし業《わざ》、刃《やいば》こそ當てね、可惜《あたら》武士を手に掛けしも同じ事。――思へば思ふほど、乙女心《をとめごゝろ》の胸塞《むねふさが》りて泣《な》くより外にせん術《すべ》もなし。
 吁々、協《かな》はずば世を捨てんまで我を思ひくれし人の情の程こそ中々に有り難けれ。儘ならぬ世の義理に心ならずとは言ひながら、斯かる誠ある人に、只々|一言《ひとこと》の返事《かへりごと》だにせざりし我こそ今更に悔《くや》しくも亦罪深けれ。手筐《てばこ》の底に祕《ひ》め置きし瀧口が送りし文、涙ながらに取り出して心遣《こゝろや》りにも繰《く》り返せば、先には斯くまでとも思はざりしに、今の心に讀みもて行く一字毎に腸《はらわた》も千切《ちぎ》るゝばかり。百夜《もゝよ》の榻《しぢ》の端《はし》がきに、今や我も數書《かずか》くまじ、只々つれなき浮世と諦《あきら》めても、命ある身のさ
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