》してや瀧口殿は何思ひ立ちてや、世を捨て給ひしと專ら評判高きをば、御身は未セ聞き給はずや。世捨人《よすてびと》に情も義理も要《い》らばこそ、花も實《み》もある重景殿に只々一言の色善《いろよ》き返《かへ》り言《ごと》をし給へや。軈《やが》て兵衞にも昇り給はんず重景殿、御身が行末は如何に幸ならん。未だ浮世《うきよ》慣《な》れぬ御身なれば、思ひ煩らひ給ふも理《ことわり》なれども、六十路《むそぢ》に近き此の老婆、いかで爲惡《ためあ》しき事を申すべき、聞分け給ひしかや』。
顏差し覗《のぞ》きて猫撫聲《ねこなでごゑ》、『や、や』と媚《こ》びるが如く笑《ゑみ》を含みて袖を引けば、今まで應《いらへ》えもせず俯《うつむ》き居たりし横笛は、引かれし袖を切るが如く打ち拂ひ、忽ち柳眉《りうび》を逆立《さかだ》て、言葉《ことば》鋭《するど》く、『無禮《なめげ》にはお在《は》さずや冷泉さま、榮華の爲に身を賣る遊女舞妓と横笛を思ひ給うてか。但しは此の横笛を飽くまで不義淫奔に陷《おとしい》れんとせらるゝにや。又しても問ひもせぬ人の批判、且つは深夜に道ならぬ媒介《なかだち》、横笛迷惑の至り、御歸りあれ冷泉樣。但し高聲擧げて宿直《とのゐ》の侍《さむらひ》を呼び起し申さんや』。
第十六
鋭き言葉に言い懲《こら》されて、餘儀なく立ち上《あが》る冷泉を、引き立てん計りに送り出だし、本意《ほい》なげに見返るを見向《みむき》もやらず、其儘障子を礑《はた》と締《し》めて、仆るゝが如く座に就ける横笛。暫しは恍然《うつとり》として氣を失へる如く、いづこともなく詰《きつ》と凝視《みつ》め居しが、星の如き眼の裏《うち》には溢《あふ》るゝばかりの涙を湛《たゝ》へ、珠の如き頬にはら/\と振りかゝるをば拭はんともせず、蕾の唇《くちびる》惜氣《をしげ》もなく喰ひしばりて、噛み碎く息の切れ/″\に全身の哀れを忍ばせ、はては耐へ得で、體を岸破《がば》とうつ伏して、人には見えぬ幻《まぼろし》に我身ばかりの現《うつゝ》を寄せて、よゝとばかりに泣き轉《まろ》びつ。涙の中にかみ絞る袂を漏れて、幽《かすか》に聞ゆる一言《ひとこと》は、誰れに聞かせんとてや、『ユ許し給はれ』。
良《よ》しや眼前に屍《かばね》の山を積まんとも涙一滴こぼさぬ勇士に、世を果敢《はか》なむ迄に物の哀れを感じさせ、夜毎《よごと》の秋に浮身《うきみ》をやつす六波羅一の優男《やさをとこ》を物の見事に狂はせながら、「許し給はれ」とは今更ら何の醉興《すゐきよう》ぞ。吁々《あゝ》然《さ》に非ず、何處《いづこ》までの浮世なれば、心にもあらぬ情《つれ》なさに、互ひの胸の隔てられ、恨みしものは恨みしまゝ、恨みられしものは恨みられしまゝに、あはれ皮|一重《ひとへ》を堺に、身を換へ世を隔てても胡越の思ひをなす、吾れ人の運命こそ果敢《はか》なけれ。横笛が胸の裏こそ、中々に口にも筆にも盡されね。
飛鳥川《あすかがは》の明日《あす》をも俟たで、絶ゆる間《ま》もなく移り變る世の淵瀬《ふちせ》に、百千代《もゝちよ》を貫きて變らぬものあらば、そは人の情にこそあんなれ。女子《をなご》の命《いのち》は只一《たゞひと》つの戀、あらゆる此世の望み、樂み、さては優《いう》にやさしき月花《つきはな》の哀れ、何れ戀ならぬはなし。胸に燃ゆる情の焔《ほのほ》は、他を燒かざれば其身を焚《や》かん、まゝならぬ戀路《こひぢ》に世を喞《かこ》ちて、秋ならぬ風に散りゆく露の命葉《いのちば》、或は墨染《すみぞめ》の衣《ころも》に有漏《うろ》の身を裹《つゝ》む、さては淵川《ふちかは》に身を棄つる、何れか戀の炎《ほむら》に其躯《そのみ》を燒き蓋《つ》くし、殘る冷灰の哀れにあらざらんや。女子の性《さが》の斯く情深《なさけふか》きに、いかで横笛のみ濁り無情《つれな》かるべきぞ。
人知らぬ思ひに秋の夜半《よは》を泣きくらす横笛が心を尋ぬれば、次の如くなりしなり。
想ひ※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、52−5]《まは》せば、はや半歳の昔となりぬ。西八條の屋方《やかた》に花見の宴《うたげ》ありし時、人の勸《すゝ》めに默《もだ》し難く、舞ひ終る一曲の春鶯囀に、數《かず》ならぬ身の端《はし》なくも人に知らるゝ身となりては、御室《おむろ》の郷《さと》に靜けき春秋《はるあき》を娯《たの》しみし身の心惑《こゝろまど》はるゝ事のみ多かり。見も知らず、聞きも習はぬ人々の人傳《ひとづて》に送る薄色《うすいろ》の折紙に、我を宛名《あてな》の哀れの數々《かず/\》。都慣《みやこな》れぬ身には只々胸のみ驚かれて、何と答へん術《すべ》だに知らず、其儘心なく打ち過ぐる程に、雲井の月の懸橋《かけはし》絶《た》えしと思ひてや、心を寄するものも漸く尠《すくな》くなりて、始めに渝《かは》らず文
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