れば見れども見えず、聞けども聞えず、命の蔭に蹲踞《うづくま》る一念の戀は、玉の緒ならで斷たん術もなし。
 誠や、戀に迷へる者は猶ほ底なき泥中に陷れるが如し。一寸|上《うへ》に浮ばんとするは、一寸|下《した》に沈むなり、一尺|岸《きし》に上《のぼ》らんとするは、一尺|底《そこ》に下《くだ》るなり、所詮自ら掘れる墳墓に埋るゝ運命は、悶え苦みて些の益もなし。されば悟れるとは己れが迷を知ることにして、そを脱《だつ》せるの謂《いひ》にはあらず。哀れ、戀の鴆毒《ちんどく》を渣《かす》も殘さず飮み干《ほ》せる瀧口は、只々坐して致命の時を待つの外なからん。

   第八

 消えわびん露の命を、何にかけてや繋《つな》ぐらんと思ひきや、四五日|經《へ》て瀧口が顏に憂の色漸く去りて、今までの如く物につけ事に觸れ、思ひ煩ふ樣《さま》も見えず、胸の嵐はしらねども、表面《うはべ》は槇《まき》の梢のさらとも鳴らさず、何者か失意の戀にかへて其心を慰むるものあればならん。
 一日《あるひ》、瀧口は父なる左衞門に向ひ、『父上に事改《ことあらた》めて御願ひ致し度き一義あり』。左衞門『何事ぞ』と問へば、『斯かる事、我口より申すは如何《いかゞ》なものなれども、二十を越えてはや三歳にもなりたれば、家に洒掃の妻なくては萬《よろづ》に事缺《ことか》けて快《こゝろよ》からず、幸ひ時頼|見定《みさだ》め置きし女子《をなご》有れば、父上より改めて婚禮を御取計らひ下されたく、願ひと言ふは此事に候』。人傳《ひとづ》てに名を聞きてさへ愧《はぢ》らふべき初妻《うひづま》が事、顏赤らめもせず、落付き拂ひし語《ことば》の言ひ樣、仔細ありげなり。左衞門笑ひながら、『これは異《い》な願ひを聞くものかな、晩《おそ》かれ早かれ、いづれ持たねばならぬ妻なれば、相應《ふさ》はしき縁もあらばと、老父《われ》も疾くより心懸け居りしぞ。シテ其方《そなた》が見定め置きし女子とは、何れの御内《みうち》か、但しは御一門にてもあるや、どうぢや』。『小子《それがし》が申せし女子は、然《さ》る門地ある者ならず』。『然《さ》らばいかなる身分《みぶん》の者ぞ、衞府附《ゑふづき》の侍《さむらひ》にてもあるか』。『否《いや》、さるものには候はず、御所の曹司に横笛と申すもの、聞けば御室《おむろ》わたりの郷家の娘なりとの事』。
 瀧口が顏は少しく青ざめて、思ひ定めし眼の色|徒《たゞ》ならず。父は暫《しば》し語《ことば》なく俯《うつむ》ける我子の顏を凝視《みつ》め居しが、『時頼、そは正氣《しやうき》の言葉か』。『小子《それがし》が一生の願ひ、神以《しんもつ》て詐《いつわ》りならず』。左衞門は兩手を膝に置き直して聲勵まし、『やよ時頼、言ふまでもなき事なれど、婚姻は一生の大事と言ふこと、其方《そち》知らぬ事はあるまじ。世にも人にも知られたる然《しか》るべき人の娘を嫁子《よめご》にもなし、其方《そち》が出世をも心安うせんと、日頃より心を用ゆる父を其方は何と見つるぞ。よしなき者に心を懸けて、家の譽をも顧みぬほど、無分別の其方《そち》にてはなかりしに、扨は豫《かね》てより人の噂に違はず、横笛とやらの色に迷ひしよな』。『否、小子《それがし》こと色に迷はず、香《か》にも醉はず、神以《しんもつ》て戀でもなく浮氣でもなし、只々少しく心に誓ひし仔細の候へば』。
 左衞門は少しく色を起し、『默れ時頼、父の耳目を欺かん其の語《ことば》、先頃其方が儕輩の足助《あすけ》の二郎殿、年若きにも似ず、其方が横笛に想ひを懸け居ること、後の爲ならずと懇《ねんごろ》に潛かに我に告げ呉れしが、其方《そち》に限りて浮きたる事のあるべきとも思はれねば、心も措かで過ぎ來りしが、思へば父が庇蔭目《ひいきめ》の過《あやま》ちなりし。神以て戀にあらずとは何處《どこ》まで此父を袖になさんずる心ぞ、不埒者め。話にも聞きつらん、祖先|兵衞《ひやうゑ》直頼殿、餘五將軍《よごしやうぐん》に仕《つか》へて拔群《ばつくん》の譽を顯はせしこのかた、弓矢《ゆみや》の前には後《おく》れを取らぬ齋藤の血統《ちすぢ》に、女色《によしよく》に魂を奪はれし未練者は其方が初めぞ。それにても武門の恥と心付かぬか、弓矢の手前に面目なしとは思はずか。同じくば名ある武士の末にてもあらばいざしらず、素性《すじやう》もなき土民郷家の娘に、茂頼斯くて在らん内は、齋藤の門をくゞらせん事思ひも寄らず』。
 老《おい》の一徹短慮に息卷《いきま》き荒《あら》く罵れば、時頼は默然として只々|差俯《さしうつむ》けるのみ。やゝありて、左衞門は少しく面《おもて》を和《やは》らげて、『いかに時頼、人若《ひとわか》き間は皆|過《あやま》ちはあるものぞ、萌え出《い》づる時の美《うる》はしさに、霜枯《しもがれ》の哀れは見えねども、何《いづ》れか秋に遭《
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