誰か測り、誰か知る。然《さ》なり、情《つれ》なしと見、心なしと思ひしは、僻める我身の誤なりけり。然るにても――
 瀧口の胸は麻の如く亂れ、とつおいつ、或は恨み、或は疑ひ、或は惑ひ、或は慰め、去りては來り、往きては還り、念々不斷の妄想、流は千々に異《かは》れども、落行く末はいづれ同じ戀慕の淵。迷の羈絆《きづな》目に見えねば、勇士の刃も切らんに術《すべ》なく、あはれや、鬼も挫《ひし》がんず六波羅一の剛《がう》の者《もの》、何時《いつ》の間《ま》にか戀の奴《やつこ》となりすましぬ。
 一夜|時頼《ときより》、更闌《かうた》けて尚ほ眠りもせず、意中の幻影《まぼろし》を追ひながら、爲す事もなく茫然として机に憑《よ》り居しが、越し方、行末の事、端《はし》なく胸に浮び、今の我身の有樣に引き比《くら》べて、思はず深々《ふかぶか》と太息《といき》つきしが、何思ひけん、一聲高く胸を叩いて躍り上《あが》り、『嗚呼|過《あやま》てり/\』。

   第七

 歌物語《うたものがたり》に何の癡言《たはこと》と聞き流せし戀てふ魔に、さては吾れ疾《とく》より魅《み》せられしかと、初めて悟りし今の刹那に、瀧口が心は如何《いか》なりしぞ。『嗚呼過てり』とは何より先に口を衝いて覺えず出でし意料無限の一語、襟元に雪水を浴びし如く、六尺の總身ぶる/\と震ひ上りて、胸轟き、息《いき》せはしく、『むゝ』とばかりに暫時《しばし》は空を睨んで無言の體《てい》。やがて眼《め》を閉ぢてつくづく過越方《すぎこしかた》を想ひ返せば、哀れにもつらかりし思ひの數々《かず/\》、さながら世を隔てたらん如く、今更|明《あ》かし暮らせし朝夕の如何にしてと驚かれぬる計り。夢かと思へば、現《うつ》せ身の陽炎《かげろふ》の影とも消えやらず、現《うつゝ》かと見れば、夢よりも尚ほ淡き此の春秋の經過、例へば永の病に本性を失ひし人の、やうやく我に還りしが如く、瀧口は只々恍惚として呆るゝばかりなり。
『嗚呼過てり/\、弓矢《ゆみや》の家に生《う》まれし身の、天晴《あつぱれ》功名手柄して、勇士の譽を後世に殘すこそ此世に於ける本懷なれ。何事ぞ、眞の武士の唇頭《くちびる》に上《の》ぼすも忌《いま》はしき一女子の色に迷うて、可惜《あたら》月日《つきひ》を夢現《ゆめうつゝ》の境に過《すご》さんとは。あはれ南無八幡大菩薩も照覽あれ、瀧口時頼が武士の魂の曇なき證據、眞《まつ》此の通り』と、床《とこ》なる一刀スラリと拔きて、青燈の光に差し付くれば、爛々たる氷の刃に水も滴《したゝ》らんず無反《むそり》の切先《きつさき》、鍔を銜《ふく》んで紫雲の如く立上《たちのぼ》る燒刃《やきば》の匂《にほ》ひ目も覺《さ》むるばかり。打ち見やりて時頼|莞爾《につこ》と打ち笑《ゑ》み、二振三振《ふたふりみふり》、不圖《ふと》平見《ひらみ》に映る我が顏見れば、こはいかに、内落ち色|蒼白《あをじろ》く、ありし昔に似もつかぬ悲慘の容貌。打ち駭きて、ためつ、すがめつ、見れば見るほど變り果てし面影《おもかげ》は我ならで外になし。扨も窶れたるかな、愧《はづか》しや我を知れる人は斯かる容《すがた》を何とか見けん――、そも斯くまで骨身をいためし哀れを思へば、深さは我ながら程知らず、是も誰《た》が爲め、思へば無情《つれな》の人心《ひとごゝろ》かな。
 碎けよと握り詰めたる柄《つか》も氣も何時《いつ》しか緩《ゆる》みて、臥蠶《ぐわさん》の太眉《ふとまゆ》閃々と動きて、覺えず『あゝ』と太息《といき》つけば、霞む刀に心も曇り、映《うつ》るは我面《わがかほ》ならで、烟の如き横笛が舞姿。是はとばかり眼を閉ぢ、氣を取り直し、鍔音高く刃《やいば》を鞘に納むれば、跡には燈の影ほの暗く、障子に映る影さびし。
 嗚呼々々、六尺の體《み》に人竝みの膽は有りながら、さりとは腑甲斐なき我身かな。影も形もなき妄念《まうねん》に惱まされて、しらで過ぎし日はまだしもなれ、迷ひの夢の醒め果てし今はの際《きは》に、めめしき未練は、あはれ武士ぞと言ひ得べきか。輕しと喞《かこ》ちし三尺二寸、双腕《もろうで》かけて疊みしはそも何の爲の極意《ごくい》なりしぞ。祖先の苦勞を忘れて風流三昧に現《うつゝ》を拔かす當世武士を尻目にかけし、半歳前の我は今|何處《いづく》にあるぞ。武骨者と人の笑ふを心に誇りし齋藤時頼に、あはれ今無念の涙は一滴も殘らずや。そもや瀧口が此身は空蝉《うつせみ》のもぬけの殼《から》にて、腐れしまでも昔の膽の一片も殘らぬか。
 世に畏るべき敵に遇はざりし瀧口も、戀てふ魔神には引く弓もなきに呆れはてぬ。無念と思へば心愈々亂れ、心愈々亂るゝに隨《つ》れて、亂脈打てる胸の中に迷ひの雲は愈々擴がり、果は狂氣の如くいらちて、時ならぬ鳴弦の響、劍撃の聲に胸中の渾沌を清《すま》さんと務むれども、心茲にあらざ
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