西海の波に浮ベてこそ、天晴《あつぱれ》名門《めいもん》の最後、潔しとこそ申すべけれ。然るを君には宗族故舊を波濤の上に振捨てて、妻子の情に迷はせられ、斯く見苦しき落人に成らせ給ひしぞ心外千萬なる。明日にも屋島沒落の曉に、御一門殘らず雄々しき最後を遂《と》げ給ひけん時、君一人は如何にならせ給ふ御心に候や。若し又關東の手に捕はれ給ふ事のあらんには、君こそは妻子の愛に一門の義を捨てて、死すべき命を卑怯にも遁れ給ひしと世の口々に嘲られて、京鎌倉に立つ浮名をば君には風やいづこと聞き給はんずる御心に候や。申すも恐れある事ながら、御父重盛卿は智仁勇の三徳を具《そな》へられし古今の明器《めいき》。敵も味方も共に景慕する所なるに、君には其の正嫡と生れ給ひて、先君の譽を傷《きずつ》けん事、口惜《くちを》しくは思《おぼ》さずや。本三位の卿の擒となりて京鎌倉に恥を曝《さら》せしこと、君には口惜しう見え給ふほどならば、何とて無官の大夫が健氣《けなげ》なる討死《うちじに》を譽とは思ひ給はぬ。あはれ君、先君の御事、一門の恥辱となる由を思ひ給はば、願くは一刻も早く屋島に歸り給へ、瀧口、君を宿し參らする庵も候はず。あゝ斯くつれなく待遇《もてな》し參らするも、故内府が御恩の萬分の一に答へん瀧口が微哀、詮ずる處、君の御爲を思へばなり。御恨みのほどもさこそと思ひ遣《や》らるれども、今は言ひ解かん術《すべ》もなし。何事も申さず、只々屋島に歸らせ給ひ、御一門と生死を共にし給へ』。
忌まず、憚らず、涙ながらに諫むる瀧口入道。維盛卿は至極の道理に面目なげに差し俯《うつぶ》き、狩衣の御袖を絞りかねしが、言葉もなく、ツと次の室に立入り給ふ。跡見送りて瀧口は、其儘|岸破《がば》と伏して男泣きに泣き沈みぬ。
第三十三
よもすがら恩義と情の岐巷《ちまた》に立ちて、何れをそれと決《さだ》め難《かね》し瀧口が思ひ極めたる直諫に、さすがに御身の上を恥らひ給ひてや、言葉もなく一間《ひとま》に入りし維盛卿、吁々思へば君が馬前の水つぎ孰りて、大儀ぞの一聲を此上なき譽と人も思ひ我れも誇りし日もありしに、如何に末の世とは言ひながら、露忍ぶ木蔭《こかげ》もなく彷徨《さまよ》ひ給へる今の痛はしきに、快《こゝろよ》き一夜の宿も得せず、面《ま》のあたり主を恥《はぢ》しめて、忠義顏なる我はそも如何なる因果ぞや。末望みなき落人故《おちうどゆゑ》の此つれなさと我を恨み給はんことのうたてさよ。あはれ故内府在天の靈も照覽あれ、血を吐くばかりの瀧口が胸の思ひ、聊か二十餘年の御恩に酬ゆるの寸志にて候ぞや。
松杉暗き山中なれば、傾き易き夕日の影、はや今日の春も暮れなんず。姿ばかりは墨染にして、君が行末を嶮《けは》しき山路に思ひ較《くら》べつ、溪間《たにま》の泉を閼伽桶《あかをけ》に汲取りて立ち歸る瀧口入道、庵の中を見れば、維盛卿も重景も、何處に行きしか、影もなし。扨は我が諫めを納《い》れ給ひて屋島《やしま》に歸られしか、然るにても一言の我に御|告知《しらせ》なき訝しさよ。四邊《あたり》を見※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、104−6]《みまは》せば不圖《ふと》眼にとまる經机《きやうづくゑ》の上にある薄色の折紙、取り上げ見れば維盛卿の筆と覺しく、水莖《みづぐき》の跡|鮮《あざ》やかに走り書せる二首の和歌、
かへるべき梢はあれどいかにせん
風をいのちの身にしあなれば
濱千鳥入りにし跡をしらせねば
潮のひる間に尋ねてもみよ
哀れ、御身を落葉と觀《くわん》じ給ひて元の枝をば屋島とは見給ひけん、入りにし跡を何處とも知らせぬ濱千鳥、潮干《しほひ》の磯に何を尋ねよとや。――扨はとばかり瀧口は、折紙の面《おもて》を凝視《みつ》めつゝ暫時《しばし》茫然として居たりしが、何思ひけん、豫《あらか》じめ祕藏せし昔の名殘《なごり》の小鍛冶《こかぢ》の鞘卷、狼狽《あわたゞ》しく取出して衣《ころも》の袖に隱し持ち、麓の方に急ぎける。
路傍の家に維盛卿が事それとなしに尋ぬれば、狩衣《かりぎぬ》着《き》し侍《さむらひ》二人《ふたり》、麓《ふもと》の方に下りしは早や程過ぎし前の事なりと答ふるに、愈々足を早め、走るが如く山を下りて、路すがら人に問へば、尋ぬる人は和歌の浦さして急ぎ行きしと言ふ。瀧口胸愈々轟き、氣も半《なかば》亂れて飛ぶが如く濱邊《はまべ》をさして走り行く。雲に聳ゆる高野の山よりは、眼下に瞰下《みおろ》す和歌の浦も、歩めば遠き十里の郷路、元より一|刻半※[#「※」は「ひへん+向」、読みは「とき」、第3水準1−85−25、105−8]《こくはんとき》の途ならず。日は既に暮れ果てて、朧げながら照り渡る彌生半《やよひなかば》の春の夜の月、天地を鎖す青紗の幕は、雲か烟か、將《は》た
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