霞か、風雄のすさびならで、生死の境に爭へる身のげに一刻千金の夕かな。夢路を辿る心地して、瀧口は夜すがら馳せて辛《やうや》く着ける和歌の浦。見渡せば海原《うなばら》遠《とほ》く烟籠《けぶりこ》めて、月影ならで物もなく、濱千鳥聲絶えて、浦吹く風に音澄める磯馳松《そなれまつ》、波の響のみいと冴えたり。入りにし人の跡もやと、此處彼處《こゝかしこ》彷徨《さまよ》へば、とある岸邊《きしべ》の大なる松の幹を削《けづ》りて、夜目《よめ》にも著《しる》き數行の文字。月の光に立寄り見れば、南無三寶。『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名淨海、親父小松内大臣左大將重盛公法名淨蓮、三位中將維盛年二十七歳、壽永三年三月十八日和歌の浦に入水《じゆすゐ》す、徒者足助二郎重景二十五歳殉死す』。墨痕淋漓として乾かざれども、波靜かにして水に哀れの痕も殘らず。瀧口は、あはやと計り松の根元《ねもと》に伏轉《ふしまろ》び、『許し給へ』と言ふも切《せつ》なる涙聲、哀れを返す何處の花ぞ、行衞も知らず二片三片《ふたひらみひら》、誘ふ春風は情か無情か。

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 次の日の朝、和歌の浦の漁夫《ぎよふ》、磯邊に來て見れば、松の根元に腹掻切《はらかきき》りて死せる一個の僧あり。流石|汚《けが》すに忍びでや、墨染の衣は傍らの松枝《まつがえ》に打ち懸けて、身に纏へるは練布の白衣、脚下に綿津見《わたつみ》の淵を置きて、刀持つ手に毛程の筋の亂れも見せず、血汐の糊《のり》に塗《まみ》れたる朱溝《しゆみぞ》の鞘卷|逆手《さかて》てに握りて、膝も頽《くづ》さず端坐《たんざ》せる姿は、何れ名ある武士の果ならん。
 嗚呼是れ、戀に望みを失ひて、世を捨てし身の世に捨てられず、主家の運命を影に負うて二十六年を盛衰の波に漂はせし、齋藤瀧口時頼が、まこと浮世の最後なりけり。



底本:「瀧口入道」岩波文庫、岩波書店
   1938(昭和13)年12月2日第1刷発行
   1968(昭和43)年10月16日第32刷改版発行
   1980(昭和55)年3月10日第43刷発行
入力:笠置一郎
校正:双沢薫
2001年7月12日公開
2001年7月16日修正
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