秋をも待たず果敢《はか》なくなりしとかや。思ひし人は世を去りて、殘る哀れは我れにのみ集まり、迷の夢醒めて、初めて覺《さと》る我身の罪、あゝ我れ微《なか》りせば、御邊も可惜《あたら》武士を捨てじ、横笛も亦世を早うせじ、とても叶はぬ戀とは知らで、道ならぬ手段《てだて》を用ひても望みを貫かんと務めし愚さよ。唯々我れありし爲め浮世の義理に明けては言はぬ互の心、底の流れの通ふに由なく、御邊と言ひ、横笛と言ひ、皆盛年の身を以て、或は墨染の衣に世を遁れ、或は咲きもせぬ蕾のまゝに散り果てぬ、世の恨事何物も之に過ぐべうも覺えず。今宵《こよひ》端《はし》なく御邊に遇ひ、ありしにも似ぬ體を見るにつけ、皆是れ重景が爲《な》せる業と思へば、いぶせき庵に多年の行業にも若し知り給はば、嘸や我を恨み給ひけん。――此期に及び多くは言はじ、只々御邊が許《ゆる》しを願ふのみ』。慚愧と悲哀に情迫り聲さへうるみて、額《ひたひ》の汗を拭ひ敢へず。
重景が事、斯くあらんとは豫《かね》てより略々《ほぼ》察し知りし瀧口なれば、さして騷がず、只々横笛が事《こと》、端《はし》なく胸に浮びては、流石《さすが》に色に忍びかねて、法衣の濡るゝを覺えず。打蕭《うちしを》れたる重景が樣を見れば、今更憎む心も出でず、世にときめきし昔に思ひ比べて、哀れは一入《ひとしほ》深し。『若き時の過失《あやまち》は人毎《ひとごと》に免《まねか》れず、懺悔《ざんげ》めきたる述懷は瀧口|却《かへつ》て迷惑に存じ候ぞや。戀には脆《もろ》き我れ人の心、など御邊一人の罪にてあるべき。言うて還らぬ事は言はざらんには若《し》かず、何事も過ぎし昔は恨みもなく喜びもなし。世に望みなき瀧口、今更|何隔意《なにきやくい》の候べき、只々世にある御邊の行末永き忠勤こそ願はしけれ』。淡きこと水の如きは大人の心か、昔の仇を夢と見て、今の現《うつゝ》に報いんともせず、恨みず、亂れず、光風霽月の雅量は、流石は世を觀じたる瀧口入道なり。
第三十二
早ほの/″\と明けなんず春の曉《あかつき》、峰の嶺、空の雲ならで、まだ照り染めぬ旭影。霞に鎖《とざ》せる八つの谷間に夜《よる》尚ほ彷徨《さまよ》ひて、梢を鳴らす清嵐に鳥の聲尚ほ眠れるが如し。遠近《をちこち》の僧院庵室に漸く聞ゆる經の聲、鈴の響、浮世離れし物音に曉の靜けさ一入《ひとしほ》深し。まことや帝城を離れて二百里、郷里を去りて無人生《むにんしやう》、同じ土ながら、さながら世を隔てたる高野山、眞言祕密の靈跡に感應の心も轉々《うたゝ》澄みぬべし。
竹苑椒房の音に變り、破《やぶ》れ頽《くづ》れたる僧庵に如何なる夜をや過し給へる、露深き枕邊に夕の夢を殘し置きて起出で給へる維盛卿。重景も共に立ち出でて、主や何處と打見やれば、此方の一間に瀧口入道、終夜《よもすがら》思ひ煩ひて顏の色|徒《たゞ》ならず、肅然として佛壇に向ひ、眼を閉ぢて祈念の體、心細くも立ち上る一縷の香煙に身を包ませて、爪繰《つまぐ》る珠數の音|冴《さ》えたり。佛壇の正面には故《こ》内府の靈位を安置しあるに、維盛卿も重景も、是れはとばかりに拜伏し、共に祈念を凝《こ》らしける。
軈て看經《かんきん》終りて後、維盛卿は瀧口に向ひ、『扨も殊勝の事を見るものよ、今廣き日の本に、淨蓮大禪門の御靈位を設けて、朝夕の※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、101−2]向《ゑかう》をなさんもの、瀧口、爾《そち》ならで外に其人ありとも覺えざるぞ。思へば先君の被官内人、幾百人と其の數を知らざりしが、世の盛衰に隨《つ》れて、多くは身を浮草の西東、舊《もと》の主人に弓引くものさへある中に、世を捨ててさへ昔を忘れぬ爾が殊勝さよ。其れには反して、世に落人の見る影もなき今の我身、草葉の蔭より先君の嘸かし腑甲斐なき者と思ひ給はん。世に望みなき維盛が心にかゝるは此事一つ』。言ひつゝ涙を拭ひ給ふ。
瀧口は默然として居たりしが、暫くありて屹《きつ》と面《おもて》を擧げ、襟を正して維盛が前に恭しく兩手を突き、『然《さ》ほど先君の事|御心《おんこゝろ》に懸けさせ給ふ程ならば、何とて斯かる落人にはならせ給ひしぞ』。意外の一言に維盛卿は膝押進めて、『ナ何と言ふ』。『御驚きは然《さ》ることながら、御身の爲め、又御一門の爲め、御恨みの程を身一つに忍びて瀧口が申上ぐる事、一通り御聞きあれ。そも君は正しく平家の嫡流にてお在《は》さずや。今や御一門の方々《かた/″\》屋島の浦に在りて、生死を一にし、存亡を共にして、囘復の事叶はぬまでも、押寄する源氏に最後の一矢を酬いんと日夜肝膽を碎かるゝ事申すも中々の事に候へ。そも壽永の初め、指《さ》す敵の旗影《はたかげ》も見で都を落ちさせ給ひしさへ平家末代の恥辱なるに、せめて此上は、一門の將士、御座船《ござぶね》枕にして屍を
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