まつだい》までも逃《のが》れ給はじ。斯くならん末を思ひ料《はか》らせ給ひたればこそ、故内府殿の扨こそ我に仰せ置かれしなれ。此處《こゝ》ぞ御恩の報じ處、情《なさけ》を殺し心を鬼にして、情《つれ》なき諫言を進むるも、御身の爲め御家の爲め、さては過ぎ去り給ひし父君の御爲ぞや。世に埋木《うもれぎ》の花咲く事もなかりし我れ、圖《はか》らずも御恩の萬一を報ゆるの機會に遇ひしこそ、息ある内の面目なれ。あゝ然《さ》なり、然《さ》なりと點頭《うなづ》きしが、然るにても痛はしきは維盛卿、斯かる由ありとも知り給はで、情なの者よ、變りし世に心までがと、一|圖《づ》に我を恨み給はん事の心苦《こゝろぐる》しさよ。あゝ忠義の爲めとは言ひながら、君を恨ませ、辱《はづか》しめて、仕《し》たり顏なる我はそも何の困果ぞや。
義理と情の二岐《ふたみち》かけて、瀧口が心はとつおいつ、外には見えぬ胸の嵐に亂脈打ちて、暫時《しばし》思案に暮れ居しが、やゝありて、兩眼よりはら/\と落涙し、思はず口走《くちばし》る絞るが如き一語『オ御許《おゆるし》あれや、君』。言ひつゝ眼を閉ぢ、維盛卿の御寢間《おんねま》に向ひ岸破《がば》と打伏しぬ。
折柄《をりから》杉《すぎ》の妻戸《つまど》を徐ろに押し開《あ》くる音す、瀧口|首《かうべ》を擧げ、燈《ともしび》差《さ》し向けて何者と打見やれば、足助二郎重景なり。端《はし》なくは進まず、首《かうべ》を垂れて萎《しを》れ出でたる有樣は仔細ありげなり。瀧口訝しげに、『足助殿には未だ御寢ならざるや』と問へば、重景太息吐き、『瀧口殿』、聲を忍ばせて、『重景改めて御邊に謝罪せねばならぬ事あり』。『何と仰せある』。
第三十一
何事と眉を顰《ひそ》むる瀧口を、重景は怯《おそ》ろしげに打ち※[#「※」は「めへん+帝」、読みは「みまも」、96−6]《みまも》り、『重景、今更《いまさら》御邊《ごへん》と面合《おもてあは》する面目もなけれども、我身にして我身にあらぬ今の我れ、逃《のが》れんに道もなく、厚かましくも先程よりの體《てい》たらく、御邊《ごへん》の目には嘸や厚顏とも鐵面とも見えつらん。維盛卿の前なれば心を明《あか》さん折もなく、暫《しば》しの間《あひだ》ながら御邊の顏見る毎に胸を裂かるゝ思ひありし、そは他事にもあらず、横笛が事』。言ひつゝ瀧口が顏、竊《ぬす》むが如く見上ぐれば、默然として眼を閉ぢしまゝ、衣の袖の搖《ゆる》ぎも見せず。『世を捨てし御邊が清き心には、今は昔の恨みとて殘らざるべけれ共、凡夫《ぼんぷ》の悲しさは、一度|犯《をか》せる惡事は善きにつけ惡しきにつけ、影の如く附き纏《まと》ひて、此の年月の心苦しさ、自業自得なれば誰れに向ひて憂を分たん術もなく、なせし罪に比べて只々我が苦しみの輕きを恨むのみ。喃《のう》、瀧口殿、最早《もは》や世に浮ぶ瀬もなき此身、今更|惜《を》しむべき譽もなければ、誰れに恥づべき名もあらず、重景が一|期《ご》の懺悔《ざんげ》聞き給へ。御邊《ごへん》の可惜《あたら》武士を捨てて世を遁《のが》れ給ひしも、扨は横笛が深草の里に果敢《はか》なき終りを遂《と》げたりしも、起りを糾せば皆《みな》此の重景が所業にて候ぞや』。瀧口は猶ほも默然として、聞いて驚く樣も見えず。重景は語を續けて、『事の始めはくだくだしければ言はず、何れ若氣《わかげ》の春の駒、止めても止まらぬ戀路をば行衞も知らず踏み迷うて、窶《やつ》す憂身《うきみ》も誰れ故とこそ思ひけめ。我が心の萬一も酌《く》みとらで、何處《どこ》までもつれなき横笛、冷泉と云へる知れる老女を懸橋に樣子を探れば、御身も疾ぐより心を寄する由。扨は横笛、我に難面《つれな》きも御邊に義理を立つる爲と、心に嫉《ねた》ましく思ひ、彼の老女を傳手《つて》に御邊が事、色々惡樣に言ひなせし事、いかに戀路に迷ひし人の常とは言へ、今更我れながら心の程の怪しまるゝばかり。又夫れのみならず、御邊《ごへん》に横笛が事を思ひ切らせん爲め、潛かに御邊が父左衞門殿に、親實《しんじつ》を上《うは》べに言ひ入れしこともあり、皆之れ重景ならぬ女色に心を奪はれし戀の奴《やつこ》の爲せし業《わざ》、云ふも中々慚愧の至りノこそ。御邊が世を捨てしと聞きて、あゝ許し給へ、六波羅の人々知るも知らぬも哀れと思はざるはなかりしに、同じ小松殿の御内《みうち》に朝夕顏を見合せし朋輩の我、却て心の底に喜びしも戀てふ惡魔のなせる業《わざ》。あはれ時こそ來りたれ、外に戀を爭ふ人なければ、横笛こそは我れに靡かめと、夜となく晝とも言はず掻口説《かきくど》きしに、思ひ懸けなや、横笛も亦程なく行衞しれずなりぬ。跡にて人の噂に聞けば、世を捨つるまで己れを慕ひし御邊の誠に感じ、其身も深草の邊に庵を結びて御邊が爲に節を守りしが、乙女心の憂《うき》に耐へ得で、
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