行き給はで、此山には上り給ひし』。維盛卿は太息|吐《つ》き給ひ、『然《さ》ればなり、都に直に歸りたき心は山山なれども、熟々《つら/\》思へば、斯かる體《てい》にて關東武士の充てる都の中に入らんは、捕はれに行くも同じこと、先には本三位の卿(重衡)の一の谷にて擒となり、生恥《いきはぢ》を京鎌倉に曝《さら》せしさへあるに、我れ平家の嫡流として名もなき武士の手にかゝらん事、如何にも口惜しく、妻子の愛は燃ゆるばかりに切《せつ》なれども、心に心を爭ひて辛く此山に上りしなり。高野に汝あること風の便《たより》に聞きしゆゑ、汝を頼みて戒を受け、樣《さま》を變へ、其上にて心安く都にも入り、妻子にも遇はばやとこそ思ふなれ』。
瀧口は首《かうべ》を床《ゆか》に附けしまゝ、暫し泪《なみだ》に咽《むせ》び居たりしが、『都は君が三代の故郷なるに、樣を變へでは御名も唱へられぬ世の變遷こそ是非なけれ。思へば故《こ》内府の思顧の侍、其數を知らざる内に、世を捨てし瀧口の此期《このご》に及びて君の御役に立たん事、生前《しやうぜん》の面目《めんぼく》此上《このうへ》や候べき。故内府の鴻恩に比《くら》べては高野の山も高からず、熊野の海も深からず、いづれ世に用なき此身なれば、よしや一命を召され候とも苦しからず。あゝ斯かる身は枯れても折れても野末《のづゑ》の朽木《くちき》、素《もと》より物の數ならず。只々|金枝玉葉《きんしぎよくえふ》の御身として、定めなき世の波風《なみかぜ》に漂《たゞよ》ひ給ふこと、御痛はしう存じ候』。言ひつゝ涙をはら/\と流せば、維盛卿も、重景も、昔の身の上思ひ出でて、泣くより外に言葉もなし。
第三十
二人の賓客を次の室にやすませて、瀧口は孤燈の下《もと》に只々一人|寢《ね》もやらず、つら/\思※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、93−3]《おもひめぐ》らせば、痛はしきは維盛卿が身の上なり。誰れあらん小松殿の嫡男として、名門の跡を繼ぐべき御身なるに、天が下に此山ならで身を寄せ給ふ處なきまでに零落《おちぶ》れさせ給ひしは、過世《すぐせ》如何なる因縁あればにや。習ひもお在《は》さぬ徒歩《かち》の旅に、知らぬ山川を遙《は》る/″\彷徨《さまよ》ひ給ふさへあるに、玉の襖《ふすま》、錦の床《とこ》に隙《ひま》もる風も厭はれし昔にひき換へて、露にも堪へぬかゝる破屋《あばらや》に一夜の宿を願ひ給ふ御|可憐《いと》しさよ。變りし世は隨意《まゝ》ならで、指《さ》せる都には得も行き給はず、心にもあらぬ落髮を逐《と》げてだに、相見んと焦《こが》れ給ふ妻子の恩愛は如何に深かるべきぞ。御容《おんかたち》さへ窶《やつ》れさせ給ひて、此年月の忍び給ひし憂事《うきこと》も思ひやらる。思ひ出せば治承の春、西八條の花見の宴に、櫻かざして青海波を舞ひ給ひし御姿、今尚ほ昨《きのふ》の如く覺ゆるに、脇《わき》を勤めし重景さへ同じ落人《おちうど》となりて、都ならぬ高野の夜嵐に、昔の哀れを物語らんとは、怪しきまで奇《く》しき縁なれ。あはれ、肩に懸けられし恩賜の御衣に一門の譽を擔ひ、竝《な》み居る人よりは深山木《みやまぎ》の楊梅と稱《たゝ》へられ、枯野の小松と歌はれし其時は、人も我も誰れかは今日《けふ》あるを想ふべき。昔は夢か今は現《うつゝ》か。十年にも足らぬ間に變り果てたる世の樣を見るもの哉。
果《はて》しなき今昔《こんじやく》の感慨に、瀧口は柱に凭《よ》りしまゝしばし茫然たりしが、不圖《ふと》電《いなづま》の如く胸に感じて、想ひ起したる小松殿の言葉に、顰《ひそ》みし眉動き、沈みたる眼閃《ひら》めき、頽《くづ》せし膝立て直し屹《きつ》と衣《ころも》の襟を掻合《かきあ》はせぬ。思へば思へば、情なき人を恨み侘びて樣を變へんと思ひ決《さだ》めつゝ、餘所《よそ》ながら此世の告別に伺候せし時、世を捨つる我とも知り給はで、頼み置かれし維盛卿の御事、盛りと見えし世に衰へん世の末の事、愚なる我の思ひ料《はか》らん由もなければ少しも心に懸けざりしが、扨は斯からん後の今の事を仰せ置かれしよ。『少將は心弱き者、一朝事あらん時、妻子の愛に惹《ひ》かされて未練の最後に一門の恥を暴《さら》さんも測《はか》られず、時頼、たのむは其方一人』。幾度となく繰返されし御仰《おんおほせ》、六波羅上下の武士より、我れ一人を擇ばれし御心の、我は只々忝なさに前後をも辨《わきま》へざりしが、今の維盛卿の有樣、正に御遺言に適中せり。都を跡に西國へ落ち給ひしさへ口惜《くちを》しきに、屋島の浦に明日《あす》にも亡びん一門の人々を振り捨てて、武士は櫻木、散りての後の名をも惜しみ給はで、妻子の愛にめゝしくも茲まで迷ひ來られし御心根《おんこゝろね》、哀れは深からぬにはあらねども、平家の嫡流として未練の譏《そし》りは末代《
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