、少し色剥げたる厚塗の立烏帽子に卯の花色の布衣を着け、黒塗の野太刀を佩きたり。放慣れぬにや、將《はた》永の徒歩《かち》に疲れしにや、二人とも弱り果てし如く、踏み締むる足に力なく青竹《あをだけ》の杖に身を持たせて、主從相扶け、喘《あへ》ぎ/\上《のぼ》り行く高野《かうや》の山路、早や夕陽も名殘を山の巓に留めて、崖《そば》の陰、森の下、恐ろしき迄に黒みたり。祕密の山に常夜の燈《ともしび》なければ、あなたの木の根、こなたの岩角《いはかど》に膝を打ち足を挫《くじ》きて、仆れんとする身を辛《やうや》く支《さゝ》へ、主從手に手を取り合ひて、顏見合す毎に彌増《いやまさ》る太息の數、春の山風身に染みて、入相《いりあひ》の鐘の音《ね》に梵缶《ぼんふう》の響き幽《かすか》なるも哀れなり。
十歩に小休、百歩に大憩、辛《からう》じて猶ほ上り行けば、讀經の聲、振鈴の響、漸く繁くなりて、老松古杉の木立《こだち》を漏れて仄《ほのか》に見ゆる諸坊の燈《ともしび》、早や行先も遠からじと勇み勵みて行く程に、間《ま》もなく蓮生門を過ぎて主從|御影堂《みえいだう》の此方《こなた》に立止まりぬ。從者《ずさ》は近き邊《あたり》の院に立寄りて何事か物問ふ樣子なりしが、やがて元の所に立歸り、何やら主人に耳語《さゝや》けば、點頭《うなづ》きて尚も山深く上り行きぬ。
飛鈷《ひこ》地に落ちて嶮に生《お》ひし古松の蔭、半《なかば》立木を其儘に結びたる一個の庵室、夜|毎《ごと》の嵐に破れ寂びたる板間《いたま》より、漏る燈の影暗く、香烟窓を迷ひ出で、心細き鈴の音、春ながら物さびたり。二人は此の庵室の前に立ち止まりしが、從者《ずさ》はやがて門に立ちよりて、『瀧口入道殿の庵室は茲に非ずや。遙々《はる/″\》訪《たづ》ね來りし主從二人、こゝ開け給へ』と呼ばはれば、内より燈《ともしび》提《さ》げて出來《いできた》りたる一個の僧、『瀧口が庵は此處ながら、浮世の人にはる/″\訪はるゝ覺えはなきに』と言ひつゝ訝しげなる顏色して門を開けば、編笠《あみがさ》脱《ぬ》ぎつゝ、ツと通る件の旅人、僧は一目見るより打驚き、砌《しきいし》にひたと頭を附けて、『これは/\』。
第二十九
世移り人失《ひとう》せぬれば、都は今は故郷《ふるさと》ならず、滿目奮山川、眺《なが》むる我も元の身なれども、變り果てし盛衰に、憂き事のみぞ多かる世は、嵯峨の里も樂しからず、高野山に上りて早や三年《みとせ》、山遠く谷深ければ、入りにし跡を訪《と》ふ人とてあらざれば、松風ならで世に友もなき庵室に、夜に入りて訪《おとづ》れし其人を誰れと思ひきや、小松の三位中將維盛卿にて、それに從へるは足助二郎重景ならんとは。夢かとばかり驚きながら、扶《たす》け參らせて一間《ひとま》に招《せう》じ、身は遙《はるか》に席を隔てて拜伏《はいふく》しぬ。思ひ懸けぬ對面に左右《とかう》の言葉もなく、先《さき》だつものは涙なり。瀧口つらつら御容姿《おんありさま》を見上ぐれば、沒落以來、幾《いく》その艱苦を忍び給ひけん、御顏痩せ衰へ、青總の髮|疏《あらゝ》かに、紅玉の膚《はだへ》色消え、平門第一の美男と唱はれし昔の樣子、何《いづ》こにと疑はるゝばかり、年にもあらで老い給ひし御面に、故《こ》内府の俤あるも哀れなり。『こは現《うつゝ》とも覺え候はぬものかな。扨も屋島をば何として遁《のが》れ出でさせ給ひけん。當今|天《あめ》が下は源氏の勢《せい》に充《み》ちぬるに、そも何地《いづち》を指しての御旅路《おんたびぢ》にて候やらん』。維盛卿は涙を拭ひ、『さればとよ、一門沒落の時は我も人竝《ひとなみ》に都を立ち出でて西國に下《くだ》りしが、行くも歸るも水の上、風に漂ふ波枕《なみまくら》に此三年《このみとせ》の春秋は安き夢とてはなかりしぞや。或はよるべなき門司の沖に、磯の千鳥とともに泣き明かし、或は須磨を追はれて明石の浦に昔人《むかしびと》の風雅を羨み、重ね重ねし憂事《うきこと》の數《かず》、堪《た》へ忍ぶ身にも忍び難きは、都に殘せし妻子が事、波の上に起居する身のせん術《すべ》なければ、此の年月は心にもなき疎遠に打過ぎつ。嘸や我を恨み居らんと思へば彌増《いやま》す懷《なつか》しさ。兎《と》ても亡びんうたかたの身にしあれば、息ある内に、最愛《いと》しき者を見もし見られもせんと辛《から》くも思ひ決《さだ》め、重景一人|伴《ともな》ひ、夜に紛《まぎ》れて屋島を逃《のが》れ、數々の憂《う》き目を見て、阿波の結城の浦より名も恐ろしき鳴門《なると》の沖を漕ぎ過ぎて、辛《やうや》く此地までは來つるぞや。憐れと思へ瀧口』。打ち萎《しを》れし御有樣、重景も瀧口も只々袂を絞るばか閧ネり。瀧口、『優《いう》に哀れなる御述懷、覺えず法衣を沾《うるほ》し申しぬ。然《さ》るにても如何なれば都へは
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