都合のよろしいようにと私は心掛けておりました。だが、経済的の事があるので、これは、その人々の境涯次第で、或る人は少しも物質的に私の扶助を借りずに、仕事のことばかりを習った人もあれば、また或る人は、小遣いまでも心配をしたり、その親御《おやご》たちの生計《くらし》のことまで見て上げたりしたもので、少しも一様ではありませんでした。また、中には美術学校入学の目的で、その下稽古をするために一時私の弟子となった人もあり、こういう人は学校へ這入《はい》るのに都合の好いような教え方を取り、人の気質、境遇等に応じてなるべく自由な方針を取る心持で弟子をあずかったことでありました。
そこで、ざっと前後次第不同でその人々の名をば挙げて置きます。
後藤光岳君は、後藤貞行氏の息で、私の内弟子となったが、美術学校へ入学、卒業後一家を為《な》している。
斎藤作吉君は、山形県鶴岡の出身で私の門下で彫刻を学び後美術学校鋳金科へ入学し、優等で卒業し後朝鮮李王家の嘱托を受けて渡鮮し、帰国後銅像その他鋳造を専門にやっております。
高木春葉君は、美術学校の給仕《きゅうじ》であったが、日曜ごとに稽古に参り、相当物になった
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