ならぬとはいえません」と答えたのが、何かの間違いで、当人へ弟子入りを承諾したように受け取られ上郎氏の細君が当人を伴《つ》れて見えたので、今さら否《いや》ともいえず、弟子にしたわけでした。この人は私の家を去ってからも上郎氏の後援もあることで、まず仕合わせの好い方の人であります。非常な勉強家で帝展へ三度出品して三度入選しました。
関野聖雲君、神奈川県の人、小供の時から物を彫ることが好きで神童のようにいわれていたのを県の書記官の秦《はた》氏に見出《みいだ》され、その人から博物館長の股野氏にたのみ、同氏より溝口《みぞぐち》美術部長を介して私の門下となったのです。当時私は、「子供の時に郷里で名を謳《うた》われたりしても、これを鼻にかけるようなことがあってはならぬ。子供の時に褒《ほ》められたものも、本当にその道の門に這入れば、その時の作など黒人《くろうと》側からは何んでもないのであるから、決して子供の時のことを頭に置いてはいけない。その頭が取れないでは決して上達しないから、能《よ》く気を附けねばならぬ」
といって聞かせました。これは本人がまだ十四歳の時で子供ですから、子供のようにいって聞かせたの
前へ
次へ
全17ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング