の目的も多少果たされ、また私の年もようやく老い、同時に学校の仕事も責任が重く忙しくなったりして、弟子の面倒を見る暇もなくなりましたことで、弟子のまた弟子が出来て、子弟の面倒はその方でも事足る時代ともなったので、ひとまず一段落着いたのでありました。
 しかし、それでも、拠所《よんどころ》ない場合で、弟子を断わり切れぬので両三人また弟子を置くようになりました。これは私の仕事の手伝いをするものが一人もないのは不自由で、大きな材を切ったりするのは、年の若いものに限りますことで、年|老《と》ってからぽつぽつ丹精した弟子がまた多少出来ました。
 田中郭雲君は、その時代の弟子で、横浜の実業家|上郎《じょうろう》清助氏の世話で来た人です。この人は元郷里山口で大工をしていたので、朝鮮に行き木工をやっていた時に、米原雲海君の作の旅人というのを写真で見て模刻したのが最初で、実は上郎清助氏が鋳金家の山本純民君をたのみ、右の模刻を私に見てもらいに来て、「これ位の仕事をするものが将来彫刻家となる素質があるものかどうでしょうか」という妙な質問を受けたので、それを見ると、相当出来ているので、「これ位なら、勉強次第物に
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