後、目を病み、職業をかえました。
まず記憶にある処を思い出して見ると、ざっとこんなことですが、さて何んの業でもその道に這入っても成功という所まで漕《こ》ぎつけるはなかなか難事であって、途中何かと故障があって一家を成すに到る人は甚だ稀《まれ》であります。私は前申す通り、多く弟子を作る目的であったが、望みの通りかなり多くの弟子は出来ました。しかし弟子の多くなるに従って何かと物入りの嵩《かさ》むは当然で、私が学校へ奉職して、谷中に引っ越した時代は、月給は三十五円でありましたが、その中から五円を割《さ》いて一人の弟子の生活費に充《あ》てるとして、次第上がりに月給が殖えても、三年目に五円位のものですから、その割に弟子も一人二人と殖え、幾分給料が多くなったとしても、次々の弟子の方へ行きますから、私の生活はやはり元の三十五円程度の暮らしで、物質的にはなかなか縁遠いことでありました。こういう風であったから、自然、前に申した平尾賛平氏などが、商人だけに物を見る目が敏《はや》く、私の境遇を察し援助して見る考えを起されたかと思われます。
それからその後、私は一時弟子を取ることを中止しました。それは私
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