都の人で、或る人から頼まれ弟子にしたが、私の家にはいなかった。
山形の人で菅原良三(この人は中途病死)、名古屋の人で小島伝次郎、三重の人で乾丹蔵、根津のおかめそばの悴で伊藤義郎などいう弟子が相前後していました。それから細木覚次郎君は内弟子となって修業中、気の毒なことに脚気衝心《かっけしょうしん》で私宅にて亡くなりました。遠慮深い人柄な人で、私も病中何かと世話をしたが急なことで、どうしようもなく気の毒なことでありました。多くの弟子を置くとこういうような非常な場合もあり、なかなか心配なものであります。随分、前途有望の身で、途中で斃《たお》れた弟子があります。矢沢陸太郎(或る牙彫師の弟)、今岡吉蔵、角田新之助、野房義平などいう人はいずれも修業盛りで死んでしまいました。中にも野房君は鑑識家坪井晋氏の世話で十二歳の時に私の家に来て、子飼いともいうべき弟子でありましたが、三十歳末満で亡くなったのは惜しまれます。
大和田猛君は、前に話した竹内光重君等と同時代の弟子で、なかなか古く今日も彫刻でやっております。
名倉文四郎君は、両国の骨接《ほねつぎ》の息子で、下拵えを私宅でやって美術学校入学、卒業
前へ
次へ
全17ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング