端の木平何某の悴《せがれ》の木平愛二という人が弟子になった。弁当持ちで毎日通っていた。器用過ぎの気の多い人で、何んということなくやっていました。
こんな移り気な弟子があるかと思うと、大阪天王寺町の由緒《ゆいしょ》ある仏師の弟で田中栄次郎という人が内弟子になっていました。なかなかな変り者で、また極《ごく》ずいの勉強家で、その丹念なことに到《いた》っては驚くばかりでした。後に大阪に帰り、京阪地方で彫刻家の牛耳《ぎゅうじ》を取るようになりました。宅にいる間四、五年修業を積み、年が明けて後、この人は、手間の掛かる限りを尽くして十二|神将《じんしょう》の中の波夷羅《はいら》神将を二尺以上にこしらえ、美術協会へ出品しました。この作は三年間も掛かったのでその気の長いことは無類で、一つの木に取りつくと、気の済むまでは何時《いつ》までも取っ附いていじっているので、何処までも、突きつめて行く精力はえらいものでありました。私はこれには感心しましたので、波夷羅神将の出来上がった時、百五十円の売価《うりね》を附けることが不当とは少しも思いませんでした。当時一個の木彫りで百五十円という価格は飛び切りで、かつて山
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