田鬼斎氏が百円という売価を附けたので驚いた位の時代でありますから、まだ、知名の人でもない田中氏が百五十円というのは不当のようでしたが、私の目から見て、歳月の掛かっていることと、努力の籠《こも》っていることに対して、まだまだ安いとも思われました。その頃は木彫りの置き物一個三十円から、七十円というのが関《せき》の山《やま》であったのに、これは異例でしたが、やはり一心の籠《こも》ったものは恐ろしいもので、見処《みどころ》があったと見え宮内省の御用品となりました。後に或る奈良の宮家へ下されたそうですが、それをまた奈良の新薬師寺の尼さんが御ねだりして拝領して、今は同寺の宝物になっているそうであります。田中栄次郎氏、号を祥雲といいました。奇行|湧《わ》くが如き人で、頤《あご》はずしの名人でありました。……あごはずしというのは、言葉通り大笑いと、大あくびで、ひょっとすると、頤がはずれるので、両手で抑《おさ》えたり、縦に八巻《はちまき》をしたりして、用達《ようたし》をして人を驚かせたり笑わせたりしました。人柄は無類で、腕も今申す通りで、惜しい人でしたが一昨年故人となりました。生前、私のことを恩にしてい
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