らく米原氏もそういう感化を受けて来た一人であろうと思ったことでありました。そうでなければ、なかなか一介の大工さんが志を立て、京都、奈良の古美術を見て歩き他日の成業を期する基を作るなどいう心掛けはなかなか起るものでないと思うことであります。米原氏が相当功を収めて帰国しましたことは、また島根県下の美術を愛好する青年たちにも影響したと見えて、その後続々島根県人が上京して彫刻の方へ身を入れたのを見たことであります。
もう一つついでながら、米原氏のことにていって置きたいことがあります。私が先日話した猿を彫っていた時分、ちょうどそれは総領娘を亡くしまして、いろいろ物入りをして、大分内証が窮していたのでありますが、自然そういうことが弟子たちにも感じられていたことか。しかし、私は精々《せいぜい》弟子の張り合いのために、腕の相当出来るものには、一年も経つと、手伝いをさせた手間として幾分を分ち、また出品物が売約されたり、御用品になったりした時には、その半額を本人にやったりして、私自身の素志に叶《かな》うよう心掛けたことで、弟子の中にても一際《ひときわ》目立って腕の出来ていた米原氏に対しては、仕事の上か
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