突き当りになる、其処《そこ》に教育博物館というのがあって、わずかな入場料を取って公衆に見せていた。その博物館の後ろの方に空《あ》いた室があって、それを美術学校で使っていたので、学校は博物館に同居していたのです。博物館の裏口に美術学校の看板が掲っていました。それで、彫刻の教場はどうかというと、バラックようのもので、まだ一つの教場という形を為《な》しておらなかった。
 教育博物館の方はなかなか整頓《せいとん》していて、植物などはいろいろな珍しいものが蒐《あつ》めてあったが、或る方面は草|茫々《ぼうぼう》として樹木|繁《しげ》り、蚊の多いことは無類で、全く、まだ美術学校も開校早々という有様でありましたが、その中《うち》段々と生徒も殖《ふ》えて、学校の範囲が広くなったものですから、博物館は引っ越して全部その跡を学校が使うことになり、年とともに旺《さか》んになったのであるが、明治四十四年の一月二十五日の零時二十分に出火して大半を焼失してから、さらに新築して現在のような形になったのであります。
 私の学校へ這入った時分は、今の枢密院副議長浜尾男爵が校長で、故岡倉覚三先生が幹事、有名なフェノロサ氏が
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング