で二、三度も出掛けたことがありました。

 私はいよいよ学校へ出ることになりました。
 しかし、その時はまだ本官ではなかった。お雇いというのであったが、東京美術学校雇いを命ずという辞令を受けたのが明治二十二年三月十二日で、月俸三十五円給すということでありました。生まれて初めて辞令を手にした私にはよく分らない。学校へ雇われるのだからお雇いというので、皆《みんな》がお雇いなのか、自分だけが雇いなのか、そんなことすら一向訳が分らなかった。学校は二月十一日の憲法発布式当日に開校したので、私が這入《はい》る前に加納鉄哉《かのうてつや》氏が這入っておられたらしいが、どういう訳であったか、氏は暫くの間で出てしまわれたので、そのあとへ私を岡倉氏や竹内氏が引っ張り出したのでありました。
 約束通りに私は学校の仕事場へ行って仕事をすることになった。それで毎日学校へ行くのに、例の服を着て出なければならないのに、変てこで困りましたが、しまいには馴《な》れて着て出ました。

 その頃の美術学校は上野公園の現在の場所とは模様が違っておった。その頃、屏風坂《びょうぶざか》を上って真直に行くと動物園の方から来る通りで
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