しろ、写生という一生面はまずとにかく作の上に現われて、従来とは、別の手法を取っているものでありますから、非常に賞讃を博し、私も普通の注文品と異なり、畏きあたりの御たのみで、名誉の仕事でありますから、面目を施したような訳でありました。
すべてこの製作が完了致したのが、その年の秋。ちょうど第二回の競技会の開催される間際《まぎわ》に打《ぶ》つかりました。確か、二十一年の十一月であったと覚えます。そういう時期であったから彫工会の幹部の方々たちが、右の製作を見られて満足に考えておられる時でありますから、折角、これまでの出来であるから、折も好《よ》し、これを一つ競技会へ出すことにしたら好かろうということになりました。
けれども、他の事とは違い、まだ御造営の方へ納めない前に私《わたくし》に陳列してこの製作を公衆へ発表するということは、どうも僭越《せんえつ》なことではないかと気遣う向きもありましたが、その心配は山高さんにお聞きすれば直ぐ分ることだと幹部の方で是非出したい方の人の考えで御造営事務局長の職にあられた山高信離氏の池《いけ》の端《はた》七軒町の住家《すまい》へ人を遣って氏の意向を聞かせま
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