で、弟《おとうと》弟子の小沢松五郎を伴《つ》れ(上野戦争のはなしの条《くだり》にて、半さんの家へ私と一緒に参った小僧)、小風呂敷に包んだものを持って吾妻橋へ行きました。川施餓鬼の船がテンテンテンテンと囃《はや》して卒塔婆《そとば》を積んで橋下を抜けて行くのを見掛け、私と松五郎と南無阿弥陀仏の名号の書いてある紙片を一枚々々水面へ向けて流し出しました。妙なもので、どうもこういう風に一枚々々丹念に名号が書かれてある短冊ですから、それを束なりに川の中へ抛《ほう》り込むわけには行かない。流すという心持になりますと、やはり一枚々々と我が手から離れて風がひらひらと持って行って水に流れて行くのでないと流した心になりませんから、私たちは丁寧に一枚々々とめくっては流したことですが、何しろ、無数の紙片のこと故、二、三時間も掛かってやっと流してしまいました。
私は、その時は別に何んとも深く考えもしはしませんでしたが、後年、その時のことを想い出して信神《しんじん》も信神であるが、これだけのことを倦《あ》きず撓《たわ》まず、毎日々々やり透すということは普通のものに出来ることではない。噂《うわさ》に聞けば大隈夫
前へ
次へ
全22ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光雲 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング