もうとも思わず、また添い遂げ得られようとも思われぬ。どうで、添い遂げられぬものなら、一旦、自分の妻となった女であっても、その人へ傷を附けたくない。とこう考えられたものと見える。それで御夫婦の間のことは極《ごく》疎遠であったらしい。夫婦のかための杯《さかずき》はあったが、夫婦の語らいはなかった。で、お綾さんが里へ来て、その事をお母様へお話をしたものらしい。
 三枝未亡人がこの娘の話を聞くと、意外に感じたことは道理《もっとも》なこと。これはまず何より媒酌人《なこうど》の東雲さんに話すが好《よ》かろう。この嫁入り前より何か他に思い込んだ婦人でもあるのではないか。もしそういう事なら今の内引き取った方が双方のために好かろうというので、御母様が来て話されましたので、東雲師もこれは困ったと思ったが、貨一郎氏にも深い考えあってしている心持ちが分ると、夫婦の中へ立ち入って好い工合に纏めることも出来ずそのままになっている中《うち》とうとう柏木未亡人方にも何か都合があって、双方話合いでいよいよ破談となってお綾さんは里へ引き取られることになりました。
 三枝家の方では、婿の貨一郎さんの真意のある所が分りませんから、やはり疑惑を懐《いだ》き、先方の仕打ちを面白く思わないのも道理《もっとも》な次第です。また、柏木貨一郎氏の心の中には種々《いろいろ》辛《つら》いこともあったでありましょう。しかし、当人に傷の附かない中に綺麗《きれい》に還《かえ》すということが、この際何よりのことと最初から思い極《きわ》め、お綾さんのために後々のことを心配し、また自分にも用心をして非常にたしなん[#「たしなん」に傍点]でいたものらしいが、そういう深い実情は三枝家の方には分りようもなく、ついに双方の間に意思の疎通を欠いたまま不縁となったことはまことに残念なことでありました。
 私の師匠もこの間に挟《はさ》まって、いろいろ斡旋《あっせん》しましたことはいうまでもないが、何しろ、一方のお袋さんが、嫁を貰う時には貨一郎氏が何んといっても自分先に立って極《き》めてしまい、少し気に向かなければ、なかなか気随者《きずいもの》で、いい張ったとなると、誰が何んといっても我意を張り通すような有様で随分|手古摺《てこず》らされたような塩梅《あんばい》でありました。私は小僧のことで直接にはそういう交渉に当ったわけではないが、毎度、これらの要件のことで師匠の意を受けてお使いをしたり、また師匠が妻君に話していること、時々、私に愚痴《ぐち》を洩《も》らされることなどで、この結婚が破れるのであろうということを予想しておりました。後に至っても偶々《たまたま》師匠が当時のことを私に話して、本当に媒酌人をするということは重大な責任のあることを語られましたが、この時の心配苦労の一通りでなかったことが推察されました。

 さて、その後、お綾さんが里へ帰られ、間もなく大隈さんへ貰われることになったのですが、この関係は私は知りません。また、師匠もこの時のことには立ち入っておりませんでした。しかし、或る日三枝未亡人が師匠宅へ見えられてお綾さんのその後のことについて話しておられました。
「……実は、綾のことですが、今度お国のお侍で大隈という人から是非|慾《ほ》しいというので、遣わすことに承諾しましたのですが、まるで娘を掠奪《さら》われるような工合で、私も実に驚きました」
と、愚痴交じりにいっておられた所を見ると、未亡人も承諾はしたものの、先方の行方《やりかた》が乱暴なので迷惑に感じたような口裏であった。
 これは一方は直参《じきさん》のお旗下で、とにかく、お上品で三指式《みつゆびしき》に行こうというところへ、一方は西国大名の中でも荒い評判の鍋島《なべしま》藩中のお国侍、大隈八太郎といって非常な論客で政治に熱狂していた志士の一人。その時は既に大官を得て出世しているとはいえ、万事が粗野放胆で婚儀のことなど礼節にかかわらず、妻を娶《めと》るは品物のやり取り位に思っていたであろうから、お品の好い御殿風な三枝未亡人を驚かしたも無理ならぬことと思われます。何んでも人力車《じんりきしゃ》に書生《しょせい》をつけてよこして、花嫁|御寮《ごりょう》を乗せて、さっさと伴《つ》れて行ったりしては、お袋さんも娘の出世はよろこんでも、愚痴の一つもいいたくなって、東雲師の宅へ出掛けてお出《い》でになったものと見えます。
 東雲師は、黙って話しを聴《き》いておられたが、
「なるほど、しかし、そりゃ仕方がありませんよ。東京の方と、田舎《いなか》の人とでは、どうも……」
など挨拶をしている。
「でもねえ、何んだか、私は不安心ですよ。綾が取って食べられそうな人なんで……」
「いや、御隠居様。今の世の中は、そういう男が役に立つのでございますよ。御安心なさいまし」
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