師匠は高声で、笑い声も交じって奥で話していられる。私は店にいて、聞くともなくそんな話しを聞いて、あの御婦人も今度田舎のお武士《さむらい》へお片附きになったかと思ったことでありました。
その後、幾日かを経て、三枝未亡人はまた東雲師宅へ参られ、申すには、東雲さん、今日は妙なことをちょっとお願いしたいので参りましたが、実はこれを貴君《あなた》に始末して頂こうと思って持って参じましたといって風呂敷包《ふろしきづつ》みを解かれると、中に絹の服紗《ふくさ》に包んだものが米ならば一升五合もあろうかと思うほどの嵩《かさ》になっている。それを拡《ひろ》げると、中から出たものが無数の紙片の束であった。
「これは綾子が宅におります時分、長い間掛かって丹精して書きためたものですが、仕舞って置くにしても置き所もなし、焼いて棄てるにしては勿体《もったい》なし。貴君は仏師のことで、こういうものの始末はよく御存じと思いますので、何んとか好い方法で始末をなすって下さい」
との事。
師匠は何んであるかと、その物を見ると、それらの紙片は短冊《たんざく》なりに切った長さ三寸巾六、七分位の薄様|美濃《みの》に一枚々々|南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の御名号《おんみょうごう》が書いてある。それが一束々々になっているが、一束が千枚あるか、二千枚あるか、実に非常な数である。
「どうもこれは驚きました。これをお嬢様がお書きになったのでございますか」
「さようで……」
「何か御心願でもあってこんなに御丹精をなされたのでございますか」
「さあ、どうで御座いますか。あの娘の心持は私には分りませんが、何んでも毎日の勤行《ごんぎょう》のようにして、幾年か掛かって書きためたのですが、一心の籠《こも》ったもの故、こうして置くのは勿体なく……」
「なるほど、宣《よろ》しゅうございます。では、これは隅田川《すみだがわ》で川施餓鬼《かわせがき》のある時に川へ流すことに致しましょう。焼いて棄てるは勿体ない。このまま仏間になど置きましてもよろしいが、それより川へ流せば一番綺麗でよろしゅうございましょう」
「では、どうか、よろしく……」
というような談話《はなし》をして、三枝未亡人は帰られました。
それから、その年の夏に隅田川で川施餓鬼のあった日、師匠は私を呼んで、これを吾妻橋《あずまばし》から流すようにといいつかりました。
で、弟《おとうと》弟子の小沢松五郎を伴《つ》れ(上野戦争のはなしの条《くだり》にて、半さんの家へ私と一緒に参った小僧)、小風呂敷に包んだものを持って吾妻橋へ行きました。川施餓鬼の船がテンテンテンテンと囃《はや》して卒塔婆《そとば》を積んで橋下を抜けて行くのを見掛け、私と松五郎と南無阿弥陀仏の名号の書いてある紙片を一枚々々水面へ向けて流し出しました。妙なもので、どうもこういう風に一枚々々丹念に名号が書かれてある短冊ですから、それを束なりに川の中へ抛《ほう》り込むわけには行かない。流すという心持になりますと、やはり一枚々々と我が手から離れて風がひらひらと持って行って水に流れて行くのでないと流した心になりませんから、私たちは丁寧に一枚々々とめくっては流したことですが、何しろ、無数の紙片のこと故、二、三時間も掛かってやっと流してしまいました。
私は、その時は別に何んとも深く考えもしはしませんでしたが、後年、その時のことを想い出して信神《しんじん》も信神であるが、これだけのことを倦《あ》きず撓《たわ》まず、毎日々々やり透すということは普通のものに出来ることではない。噂《うわさ》に聞けば大隈夫人綾子という人は、大層よく出来た人だとの評判であるが、なるほど、娘時代からあれだけの辛抱をして心を錬《ね》っておられただけあって、今日天下一、二といわれる政治家の夫人となってもやはりその妻としての役儀を立派に仕終《しおお》せるというは、心掛けがまた別なものであるかと感心したことでありました。
私が綾子刀自について知っている因縁ばなしというのはこれだけのことで、そのほか何もありません。
けれども、私は、刀自が初縁の際の見合いに仲介人の師匠のお伴までしてその席を実見したほど、その時代のことを能《よ》く知っており、正銘《しょうみょう》疑いなしの話である。よって、私は、この奇妙な話はまことに不思議ともいうべきであるから、何時《いつ》かは何かに書き残して置きたいとも思っていたのですが、ここにそれを差し控え、今日まで、かつて口外したこともなく、これだけの話をそのまま黙っておったのは、綾子刀自が大隈家へ方附《かたづ》かれたのが、初縁でないのであるから、もし、ひょっとそういうことを私の口から口外しては、と遠慮を致したわけでありました。もっとも、大隈家へ再縁されたと申しても、事情は前申す通りの訳で
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