小さくなっている時代の彫刻界では、丈五尺というと、まずなかなかの大物《おおもの》であって、師匠の店においても、店初まって以来の大作であった。それを私が一個の手でそれを製作するというは容易ならぬ重任、生《なま》やさしいことではこの役目は出来ないのであるから、私も修業のためにもなることゆえ、一層勇気も出て、師匠のたのみを引き受けることに承知しました。
 話がきまれば、早速つもり[#「つもり」に傍点]をして見ると、店初まって以来の大作で、したがってまた店初まって以来の高価な注文品――およそ、どの位の値段になったかというと、それが、よほどおかしい。一つが百二十円、一対で二百四十円という算盤《そろばん》になった。もっとも、私の手間一年で百円にはなりませんでした。これが江戸でも屈指の大店《おおみせ》を張っている大仏師東雲の店初めての金高でありました。
 さて、私はいよいよ製作に取り掛かることになる。
 唐子の下絵《したえ》は楓湖氏の筆になったもので、それを見本として雛形《ひながた》を作る。ところが、その唐子というものはお約束通り、ずんぐりとした身長《せい》のもので大層|肥太《ふと》っている。まずその下絵によって一尺位に彫り上げ、それを師匠に見せますと、これはよく出来たという。これならばベンケイに見せてもよろしかろうというので、その旨を報《しら》せると、或る日、アーレンス商会のその注文主のお客と、それからベンケイとほかに一人で三人が馬車に乗ってやって来ました。で、早速下彫りを見せますと、案外で、どうも先方の気に入らぬような風である。何か互いに話し合って批評をしているが、その客人と覚しき人の表情を見ても気に入っておらぬということが私たちにもよく分る。そしてベンケイの通弁で大体を聞くと、どうも、ずんぐり、むっくりしているのが客の気に入らないのだという。つまり、ぶくぶくしていてはいけないので、もっと、すっきりと丈がすらり高くなくてはというのである。師匠はそれを聞いていかにも不満の体《てい》でいられる。やがて彼らは馬車に乗っていずれかへ出掛けて行きました。多分浅草でも見物に行ったことと見える。

 彼らが帰った後《あと》で、師匠はぷんぷん怒っていられる。
「毛唐人《けとうじん》に日本の彫刻が分るものか。気に入らないなら気に入らないで止《よ》したらよかろう。こっちで頼んでさせてもらう仕事で
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