幕末維新懐古談
店初まっての大作をしたはなし
高村光雲
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)中《うち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)京橋|築地《つきじ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)大たぶさ[#「たぶさ」に傍点]
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かれこれしている中《うち》に私は病気になった。
医師に掛かると、傷寒《しょうかん》の軽いのだということだったが、今日でいえば腸《ちょう》チブスであった。お医師《いしゃ》は漢法で柳橋《やなぎばし》の古川という上手な人でした。前後二月半ほども床に就《つ》いていました。
病気が癒《なお》るとまた仕事に取り掛かる。師匠の家の仕事も、博覧会の影響なども多少あって、注文も絶えず後から後からとあるという風で、まず繁昌《はんじょう》の方であった。私が専《もっぱ》ら師匠の代作をしていることなども、知る人は知っておって、私を認めている人なども自然に多くなるような風でありましたが、私としては何処《どこ》までも師匠の蔭にいるものであって、よし、多少手柄があったとしても、そういうことは虚心でいるように心掛けておりました。
師匠は私の名が表面に出て人の注目を惹《ひ》くようなことは好まれませんでした。世間の噂に私のことなどが出ても、私の耳へは入れませんでした。
さて、とかくするうち、明治十年の末か、十一年の春であったか、日取りは確《しか》と覚えませんが、その前後のこと、京橋|築地《つきじ》にアーレンス商会というドイツ人経営の有名な商館があって、その番頭のベンケイという妙な名の男と逢《あ》うことになった。
この人は年はまだ二十四であったが、なかなかの利《き》け者で、商売上の掛け引き万端、それはきびきびしたものであった。私は最初はこの人を三十以上の年輩と思っておったが、二十四と聞き、自分の年齢《とし》に比較して、まだ二つも年下でありながら、知らぬ国へ渡って、これだけ、立派に斬《き》り廻して行くというは、さてさて豪《えら》いもの、国の文明が違うためか、人間の賢不肖によるか、いずれにしても我々は慚愧《ざんき》に堪えぬ次第であると、私は心|秘《ひそ》かにこの人の利溌《りはつ》さに驚いていたのであった。
このベンケイが師匠の家に来るようになった手続きというのは、当時|菊池容斎《きくちようさ
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