い》の高弟に松本|楓湖《ふうこ》という絵師があった。この人は見上げるほどの大兵《だいひょう》で、紫の打紐《うちひも》で大たぶさ[#「たぶさ」に傍点]に結い、まち高《だか》の袴に立派な大小《だいしょう》を差して、朴歯《ほおば》の下駄《げた》を踏み鳴らし、見るからに武芸者といった立派な風采。もっとも剣術なども達者であるとか聞きましたが、当時、住居《すまい》は諏訪町《すわちょう》の湯屋の裏にあった。アーレンス商会では同商会の職工に仕事をさせるその下絵をこの楓湖氏に依頼していたので、今の番頭ベンケイがその衝に当っている所から知り合いの中であったから、折々、楓湖氏はベンケイを伴《つ》れて駒形町時代から師匠の店に彫刻類を見に来たことがあったが、今度楓湖氏を介して改めてベンケイが東雲師へ仕事を依頼すべく参ったわけであった。当時の楓湖氏は今日の帝室技芸員の松本楓湖先生のことで、私よりもさらに五、六年も老齢ではあるが、壮健で谷中清水町に住まっておられます。毎年の帝展へは必ず出品されております。
 当日は両人で来て、仕事を頼むというので、どういう御注文かというと、唐子《からこ》が器物を差し上げている形を作ってくれという。それは何に用うるかというと洋燈《ラムプ》台になるので、本国からの注文であるということ。高さは五尺位で一対。至急入用であるから、そのつもりにて幾金《いくら》で出来るかつもり[#「つもり」に傍点]をしてくれという。唐子は生地《きじ》だけを作ってくれれば、彩色は自分の方でするということであった。私もちょうど病気全快して師匠の家で仕事をしていた時であるから、これらの応対を聞いておった。

 楓湖氏とベンケイが帰ると、間もなく、師匠は私に向い、
「幸吉、今夜、夜食に行こうではないか」
といわれるので、私は師匠と一緒に夕方外へ出ました。観音様の中店の「燗銅壺《かんどうこ》」といった料理店で夜食をしながら、師匠は少し言葉を改め、
「幸吉、実は、今度、お前に骨を折ってもらわなくちゃならないことが出来たんだ。一つ確《しっ》かりやってもらいたい」
 今の洋燈台の注文が来たことを師匠は話されて、一切万事私に製作の方を仕切ってやってくれろという相談に預かりました。
 ところが、今も申す通り、丈《たけ》五尺の唐子で一対という注文、今日ではなんでもないが、その当時、徳川末期のドン底の、すべて作品が
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