から黒門《くろもん》あたりに死屍《しし》が累々としている。私も戦争がやんだというので早速出掛けて行きましたが、二つ三つ無惨な死骸《しがい》を見ると、もう嫌《いや》な気がして引っ返しました。広小路一帯は今日とは大分《だいぶ》違い、袴腰《はかまごし》がもっと三枚橋の方へ延び、黒門と袴腰の所が広々としていた。山下の方には、大きな店で雁鍋がある。この屋根の箱棟《はこむね》には雁が五羽|漆喰《しっくい》細工で塗り上げてあり、立派なものでした(雁鍋の先代は上総《かずさ》の牛久《うしく》から出て池《いけ》の端《はた》で紫蘇飯《しそめし》をはじめて仕上げたもの)。隣りに天野という大きな水茶屋《みずぢゃや》がある。甘泉堂《かんせんどう》(菓子屋)、五条の天神、今の達磨《だるま》は元岡村(料理店)それから山下は、今の上野停車場と、その隣りの山ノ手線停留場と、その脇の坂本へ行く道が、元は、下寺《したでら》の通用門で、その脇が一帯に大掃溜《おおはきだめ》であった。その側《そば》は折れ曲がって左右とも床見世《とこみせ》で、講釈場、芝居小屋などあった。この小屋に粂八《くめはち》なぞが出たものです。娘義太夫、おでん
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