や、稲荷《いなり》ずし、吹矢《ふきや》、小見世物《こみせもの》が今の忠魂碑の建っている辺まで続いておりました。この辺をすべて山王下といったものです。
停車場の向う側は山下町、その先の御徒町の電車通りの角に慶雲寺《けいうんじ》がある。この寺は市川小団次《いちかわこだんじ》の寺で法華宗《ほっけしゅう》です。山の上では今|常磐《ときわ》花壇のある所は日吉《ひえ》山王の社で総彫り物総金の立派なお宮が建っていました。その前の崖《がけ》の上が清水堂《きよみずどう》、左に鐘楼堂。法華堂、常行堂《じょうぎょうどう》が左右にあって中央は通路を跨《また》いで橋が掛かり、これを潜《くぐ》って中堂がありました。此所《ここ》が山中景色第一の所でした。
この辺一帯をかけて、その戦後の惨景は目も当てられず、戦い歇《や》んで昼過ぎ、騒ぎは一段落附いたようなものの、それからまた一騒ぎ起ったというのは、跡見物《あとけんぶつ》に出掛けた市民で、各自《てんで》に刺子袢纏《さしこばんてん》など着込んで押して行き、非常な雑踏。するとたちまち人心は恐ろしいもので慾張り出したのであります。それは官軍が彰義隊から分捕《ぶんど》った
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