礼をしており、下の方に、花瓶《かびん》に蓮《れん》を挿《さ》してある模様が彫りつけてある。これは西仏といえる人、妻と、男女二子の供養のために建立《こんりゅう》したものということだけは書きつけてあった。大火の際焼けましたが、破片は今も残っていて、花川戸の何処かの小祠《しょうし》にでも納めてあるでありましょう。

 観音の地内は、仁王門から右へ弁天山へ曲がる角に久米《くめ》の平内《へいない》の厳《いか》めしい石像がある(今日でもこれは人の知るところ)。久米は平内妻の姓であるとか。元は兵藤平内兵衛《ひょうどうへいないひょうえ》といった人、青山|主膳《しゅぜん》の家臣、豪勇無双と称せられた勇士です。石平道人|正三《しょうさん》(鈴木九太夫)の門人であった。俗説にこの人、武芸の達人で、首斬りの役をして、多くの人命を絶ったにより、その罪業消滅のため、自分の像を石に刻ませ、往来へ抛《ほう》り出し、恨みある人は我を蹴《け》って恨みを晴らせとの希望で、こうして石像を曝《さら》したものであるという……されば、その足で「踏み附ける」という言葉をもじり(文《ふみ》附《つ》ける)という意にして、縁結びの心願の偶
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