本屋の浅倉、これは今もある。それから奴《やっこ》(鰻屋)。地形が狭《せば》まって田原町になる右の角に蕎麦屋があって、息子《むすこ》が大纏《おおまとい》といった相撲《すもう》取りで、小結か関脇位まで取り、土地ッ児で人気がありました。この向うに名代の紅梅焼きがありました。
観音堂に向っては右が三社権現、それから矢大臣門(随身門《ずいじんもん》のこと)、その右手の隅に講釈師が一軒あった。
門を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代な酒屋があった。チロリで燗《かん》をして湯豆腐などで飲ませた。剣菱《けんびし》、七ツ梅《うめ》などという酒があった。馬道へ出ると一流の料理屋富士屋があり、もっと先へ出ると田町《たまち》となって、此所は朝帰りの客を招《よ》ぶ蛤鍋《はまなべ》の店が並んでいる。馬道から芝居町《しばいまち》へ抜けるところへ、藪の麦とろ[#「とろ」に傍点]があり、その先の細い横丁が楽屋新道《がくやしんみち》で、次の横丁が芝居町となる。猿若町は三丁目まであって賑《にぎ》わいました。
山《やま》の宿《しゅく》を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善《やおぜん》がある。その先は重箱
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