むすこ》というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負《おぶ》って行く。頭を剃《そ》って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。
私の母は、埼玉県|下高野《しもたかの》村の東大寺という修験《しゅげん》の家の出であります。その家の姓は菅原《すがわら》。道補《どうほ》という人の次女で、名を増《ます》といいました。こうした家柄に育てられた増は相当の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕附けられておりましたので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で巳之助《みのすけ》という大工で、今年《ことし》七十八歳、信心者《しんじんもの》で毎日神仏へのお詣《まい》りを勤めのように
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