のは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦《ふ》するに恰好《かっこう》な題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師《おし》も数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀《かな》しいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐《ふところ》の深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。
アルプスにも似た例がある。近代氷河学の祖なるルイ・アガシイ先生は、旧記を調査して、偶々《たまたま》第十六世紀の宗教戦時代に、スイスの Valais の村民が他宗派の圧迫を蒙《こうむ》り、子供たちを引き連れ、Aletsch 氷河の遠方まで、Viesch 谷に沿うて、アルプス山を横切ったとあるを見つけだし、今は到底ゆける路ではないと不審を起して、氷河を踏査せられたところ、Aletsch 大氷河が被覆《ひふく》している底に、立派に保存せられた旧道路を発見せられた旨を記述せられている(Geological Sketches 第二輯、一八七六年刊)。氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙《な》ぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。
七 石楠花
いつごろからのいいならわしか、富士の五合目を「天地の境」と称している。五合目では、実際人の気も変る、誰もわらじの緒を引き締める。私は吉田口の五合目に一泊したが、夜中絶えず、人声と鈴音がする。起きて見ると、眼の前の阪下から、ぬっと提燈《ちょうちん》が出る、すいと金剛杖が突き出る。それが引っ切りなしだから、町内の小火《ぼや》で提燈が露路《ろじ》に行列するようだ。大抵の登山者は、ここで一息いれる、水を飲む、床几《しょうぎ》にごろりと横になるのもある。五合目は山中の立場《たてば》である。
私は、御中道をするために、荷担《にかつ》ぎ一人連れて、小御岳神社の方面へと横入りをした。「途《みち》が違うぞよ」「そっちへゆくでねえぞ」遠くから呼ばった人の親切は、心のうちで受けた。水蒸気があまりに濃《こま》やかであったため、待ち設けなかった御来光が、東の空にさした。しかし旭日章旗のような光線の放射でなく、大きな火の玉というよりも、全身|爛焼《らんしょう》の火山その物のように、赤々と浮び上った。天上の雲が、いくらか火を含んで、青貝をすったようなつやが出る。それが猫眼石のように、慌《あわた》だしく変る。大裾野の草木が、めらめらと青く燃える。捨てられた鏡のような山中湖は、反射が強くて、ブリッキ色に固く光った。道志山脈、関東山脈の山々の衣紋《えもん》は、隆《りゅう》として折目を正した。思いがけなく、落葉松《からまつ》の森林から鐘が鳴った、小刻みな太鼓が木魂《こだま》のように、山から谷へと朝の空気を震撼《しんかん》した。神主の祝詞《のりと》が「聞こし召せと、かしこみ、かしこみ」と途切れ途切れに聞える時には、素朴な板葺《いたぶき》のかけ茶屋の前を通って、はや小御岳神社へと詣《もう》でるころであった。神社の庭には天狗がおもちゃにするというまさかり、かま、太刀などが、散乱している。室の人が、杖に「大願成就」という焼印を押してくれた上に、小御岳の朱印を押した紙に、水引を添えてくれた。これはしかし吉田口の五合目から、富士に向って、左に路を取り、宝永山の火口壁から、その火口底へ下り、大宮方面の大森林に入って、大沢の嶮を越え、小御岳へ出るのが順で、始めて「大願成就」になるのだが、私は故あって、逆に山に向って右廻りをした。そのため一歩踏み出したばかりで、御褒美《ごほうび》の水引きを先へ頂戴してしまった。これは逆廻りといって、道者は忌《い》むのだそうで、案内者をもって自任する荷担ぎの男は、私から右の水引と朱印を取りあげて、遂に返してもらえなかった。
何故《なぜ》逆廻りをしたかといえば、御中道は、前にも廻っているんだが、小御岳から御庭を通じて、大宮道へ出遇うまでの、森林の石楠花《しゃくなげ》を見たかったのだ。それには毎日午後から雷雨と聞いているから、晴れた朝によく見て置きたいと思ったからだ。幸いにして、石楠花を見る目的は、十分に遂げられた。同時に不幸にして、雷雨の予覚は当り過ぎるほど当った。
神社を出て、富士の胴中《どうなか》に、腹帯を巻いたような御中道へとかかる、この前後、落葉松が多く、幹を骸骨のように白くさらし、雪代水《ゆきしろみず》や風力のために、山下の方へと枝を振り分けて、うつむきに反《そ》っている、落葉松の蔭には、石楠花がちらほら見えて、深山の花の有する異香をくんじているが、路が御庭へ一里、大沢へ約二里と、森の中へ深いりすると、落葉松の間から、コメツガや、白ビソの蔭から、ひょろ長い丈の石楠花が、星のようにちらつく。それも、横に曲りくねった、普通平地で見るような石楠花でなく、白花石楠花である。高さは一丈以上に達したのも珍しくない。つばきの葉を見るような、厚い革質のくすんだ光沢《つや》があって、先端の丸い、細長い楕円形の葉を群がらしている。その裏返しになったところは、白蝋《はくろう》を塗ったようで、赤児の頬の柔か味がある。美しいのはその花弁だ。白花という名を冠《かむ》らせるくらいだから白くはあるが、花冠の脊には、岩魚《いわな》の皮膚のような、薄紅《うすべに》の曇りが潮《さ》し、花柱を取り巻いた五裂した花冠が、十個の雄蕊《ゆうずい》を抱き合うようにして漏斗《じょうご》の鉢のように開いている。しかもその花は、一つのこずえの尖端に、十数個から二十ぐらい、鈴生《すずな》りに群《むらが》って、波頭のせり上るように、噴水のたぎるように、おどっているところは、一個|大湊合《だいそうごう》の自然の花束とも見られよう、その花盛りの中に、どうかすると、北向きに固く結んだつぼみが見える。つぼみと、それを包む薹《とう》とは、赤と白とを市松格子形《いちまつこうしがた》に互層《ごそう》にして、御供物《おくもつ》の菓子のように盛り上っている。花として美しく開くものは、つぼみとしてまず麗わしく装わねばならなかった。私は平原の草野において、山百合の花を愛し、深山の灌木において、もっとも白花石楠花を愛する。
殊に白花石楠花は、日本の名ある火山に甚だ多く(もちろん火山以外にも、少ないとはいわぬ)、近いところでは、天城山、八ヶ岳にも繁茂しているし、加賀の白山にも多いところから、白山石楠花とも呼ばれているくらいであるが、高山植物の採集家として聞えた故城数馬氏は、日光の湯ノ湖を取り囲む自然生の石楠花の、いかに多く茂っていたかを、私に物語られ、今では蕩尽《とうじん》されて、僅に残株《ざんしゅ》を存するばかり、昔のおもかげは見る由もないと慨《なげ》かれたが、小御岳から、大沢をはさんで、大宮口に近い森林まで、純美なる白石楠花の茂っていることは、私を悦《よろこ》ばせる。安政六年版の玉蘭斎貞秀画、富士登山三枚続きの錦絵には、「小御岳、花ばたけ、しゃくなぎ多し」とあるから、昔から多かったものと見える。お花畑の名が、富士にあるのも珍らしい。
黒砂の道は、去年ながらの落葉を埋《う》めこんで、足障《あしざわ》りが柔かく、陰森なる喬木林から隠顕する富士は赤ッちゃけた焼土で、釈迦《しゃか》の割石《わりいし》と富士山中の第二高点、見ようによっては、剣ヶ峰より高く見える白山ヶ岳の危岩が仰がれ、そのくぼみには、シャモニイの氷河の古典的なるが如くに、富士の万年雪を、古典的にしたところの残雪が、べっとりと塗りこめられて光っている。これも貞秀の錦絵に「牛が窪、四時雪あり」とあるから、昔ながらの雪と見えるが、今ではかえって、ここの万年雪を、人が言わないようだ。それと共に、もし富士山に北米レイニーア火山のような氷河が放射していたならば、今の白石楠花の茂りは押し流されて見るべくもないから、私は現在の万年雪で満足し、花と雪を併せ有することを悦びとしたい。
それからまた、私はこのたびの登山が、七月から八月へかけてであったことを悦んでいる。十月では野にこの青味がない、五月では山にこの花がない。今は青い草と花があって、完全に山と裾野の美を示している。沈黙してたたずんでいると、鶯《うぐいす》鳴き、ホトトギス鳴き、カケスが鳴き、眼覚めた鳥が、一せいに声を合せて鳴き立てる。虫の声がその間に交る。ここ「天地の境」五、六合目の等高線、森林を境として、山を輪切りにしたところの御中道を彷徨《ほうこう》する私は、路の出入に随って、天に上り、地を下る、その間を、鳥と、虫と、石楠花が、永久|安棲《あんせい》の楽土としている。
ここに石楠花にとろけている生物が二個ある、一個は私である、一個は石楠花の花の中に没頭して、毛もくじゃらの黄色い毛だらけの尻を、倒《さか》しまに持ちあげ、蜜を吸い取っているアブである。私はアブに気がついたほど、まだ余裕があったが、アブの方では、人間などに傍目《わきめ》も触れず、無念無想に花の蜜の甘美に酔っている。だが遂にアブばかりでなかった、石楠花の甘ずっぱい香気は私を包み、アブを包み、森に漂って、樹々の心髄までしみ透るかのように、私までがアブの眷属《けんぞく》になったかのように。
この石楠花に対して、武田久吉博士は、シロシャクナゲなる名を用いておられる、博士によれば、シロシャクナゲは、本州中部の高山から、北海道にまで分布し、多数の標本を集めて見ると、葉裏全く無毛のものと、淡褐色の微毛の密生するものとある、無毛のものは、花の色が、白から淡黄に至り、殆ど淡紅|暈《うん》を帯びることがないが、有毛のものは、紅暈を帯びる、近来無毛のものを、ウスキシャクナゲと称し、有毛の方を、シロシャクナゲと呼んで、これを一変種と認めるが、総称する場合には、ハクサンシャクナゲと呼ぶのが、適当と考えられると(『高山植物写真図聚』解説参照)。
八 室
御中道歩きの特色は、山頂を見あげると共に、山麓を見下すのにある、それが、ブン廻しのように刻々変化してゆくのを、互い違いに併せ視《み》られるところにある。その山頂にしても、素焼の山の膚に、つや薬でも流したような、崩雪《なだれ》や岩崩れの跡が、切り刻みをつけている。小御岳から、大沢へゆく間にも、「小御岳流れ」「大流れ」「白草流れ」が押しだして、大森林の一部分をブッ欠き、日当りのいい窓を明けて、欠け間から裾野にかけて、山麓の斜面を見せる。それがまた驚くべく長大なる、最新の熔岩流をひろげて、下吉田の町まで肉薄する剣丸尾《けんまるび》、青木ヶ原の樹海から精進《しょうじ》村まで、末広がりに扉開きになる青木ヶ原丸尾を、眼下に展開する。殊に青木原一帯の丸尾(先人の説によれば「転《まろ》び」
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