不尽の高根
小島烏水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)室《へや》からは、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)名所|図会《ずえ》が、
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(例)※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》や、
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一 江戸と東京の富士
帰朝したのは、本年三月であった。横浜の波止場で、家族と友人の出迎えを受け、久しぶりで逢いたい顔に逢ったが、ただ一つ逢えない顔があった。それから暫らくのこと、私の勤務先は、日本橋の三越デパートメントの裏で、日本銀行と向いあったところだが、その建物の中で私たちが占めている室《へや》からは、太田道灌以来の名城を、松の緑の間に、仰ぎ見られるので、はじめて松樹国の日本に落ちついた気がした。ある日「富士が見えますよ」と、隣の机から呼びかけられて、西日さす銀覆輪《ぎんぷくりん》の雲間から、この山を見た、それが今まで、雨や、どんよりした花曇りに妨げられて、逢いたくて逢えない顔であった。私は躍り上るように喜んだ、ほんとうに、久しく尋ねあぐんでいたのだ。雲隠れする最後の一角まで、追い詰めるように視線を投げた。
ここで、私が思い浮べたのは、北米ポートランド市の、シチイ・パークから遠望した、フッド火山の、においこぼるる白無垢《しろむく》小袖《こそで》の、ろうたけた姿であった。十幾階の角形の建築物や、工場の煙突の上に、白蝶の翼をひろげたように、雪の粉《こ》を吹いて、遠くはこんもりと黒く茂った森、柔かい緑の絨氈《じゅうたん》を畝《う》ねらせる水成岩の丘陵、幾筋かの厚襟《あつえり》をかき合せたカスケード高原の上に、裳裾《もすそ》を引くこと長く、神々しくそそり立つ姿であった。そして直ぐ連想したことは、ポートランド市民の、フッド火山におけるよりも、または、タコマ市や、シャトル市[#「シャトル市」はママ]の人々が、日本人によってタコマ富士と呼ばれているところの、レイニーア大火山を崇拝しているよりも、この東京が、かつて江戸と呼ばれたころには富士山が「自分たちの山」として崇《あが》められていたことであった。少くとも、今のように忘れられていなかったことだ。太田道灌の「富士の高根を軒端にぞ見る」という歌は、余りに言い古されているとしても、江戸から富士を切り捨てた絵本や、錦絵《にしきえ》や、名所|図会《ずえ》が、いまだかつて存在したであろうか。
私のいる室は、一石《いっこく》橋を眼下に瞰下《みおろ》しているが、江戸時代に、その一石橋の上に立って見廻すと、南から北へ架け渡す長さ二十八間の、欄干《らんかん》擬宝珠《ぎぼうしゅ》の日本橋、本丸の大手から、本町への出口を控えた門があって、東詰《ひがしづめ》に高札を立ててあった常磐《ときわ》橋、河岸から大名屋敷へつづいて、火の見やぐらの高く建っていた呉服橋、そこから鍛冶《かじ》橋、江戸橋と見わたして、はては細川侯邸の通りから、常磐橋の方へと渡る道三《どうさん》橋、も一つ先の銭瓶《ぜにかめ》橋までも、一と目に綜合して見るところから、八つ見橋の名があったそうだが、その屈折した河岸景色を整調するように、遥か西に、目の覚めるような白玉の高御座《たかみくら》をすえたのが、富士山であったことは、初代|一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の『絵本江戸土産』初篇開巻に掲出せられて、大江戸の代表的風光として、知られていたのであった。私が二、三日前、ふと夜店で手に入れた天保七年の御江戸分間地図を見ると、道三橋から竜《たつ》の口《くち》、八代洲河岸にかけて、諸大名や、林|大学頭《だいがくのかみ》の御上屋敷、定火消《じょうびけし》屋敷などが立並んでいる。そのころは既に広重の出世作、『東海道五十三次』(保永堂板)は完成され、葛飾北斎《かつしかほくさい》の『富嶽三十六景』が、絵草紙屋の店頭に人目を驚かしていたのであるが、その地図にある定火消屋敷で、広重が生れ、西の丸のお膝下《ひざもと》で、名城と名山の感化を受けていたのだと思うと、晩年に富士三十六景の集作があったのも、偶然でない。
ついでに駿河町の越後屋(そのころの三井呉服店、今の三越)をいおう。大通りをはさんだ両側の屋根看板に、「呉服物類品々、現金掛値なし」と、筆太にしたためた下から、または井げたの中に、「三」と染め抜いた暖簾《のれん》の間から、出入|絡繹《らくえき》する群集を見おろして、遥に高く雲の上に、睛を点じたものが富士山であったことは、喜多川歌麿の「霜月|見世開《みせびらき》之図」や、長谷川雪旦の『江戸名所図会』一の巻、その他同様の構図の無数の錦絵におもかげを残している。殊に北斎の『富嶽百景』三巻、『富嶽三十六景』四十六枚が、いかに江戸と、その市民の生活と、富士山とを結びつけているか、いかに世界的版画の名作として、日本をフジヤマの国として、高名ならしめたかは今更説くまでもなかろう。
市民の生活といっても、当時交通不便にして、富士登山が容易でなかったために、旧暦の六月|朔日《ついたち》には、市中と郊外にある富士山の形に擬《なぞら》えた小富士や、富士権現を勧請《かんじょう》した小社に、市民が陸続参詣した。駒込の富士から神田明神、深川八幡の境内、鉄砲洲《てっぽうず》の稲荷、目黒|行人坂《ぎょうにんざか》などが、その主なる場所であった、がそれも、今ではお伽噺《とぎばなし》になってしまった。碁盤の目ほどに窓の多いデパートメント、タンクを伏せたように重っ苦しい大屋根、長方形の箱を、手品師の手際で累積したようなアメリカ式鉄筋コンクリートの高層築造物は、垂直の圧力を通行人の頭上に加えて虚空の「通せん坊」をしあっている。人の眼も昇降機の如く、鋭角を追うて一気に上下すれば、建物と建物との間にはさまって、帯のように狭くなった天空は、ニューヨークの株屋が活動するウォール・ストリートあたりを見るような天空深淵を、下から上へとのぞかせている。建物が高くなるほど、富士が見えなくなり、交通が便利で、東京富士間の距離が短縮されるほど、市民の心から富士は切り取られて、さらしッ放しの無縁塔となってしまった。もはや都市経営論者からも、富士山の眺めを取り入れることによって、日本国の首府としての都会美を、高調する計画も聞かされなくなった。ゼネヴァには、アルプスの第一高峰、モン・ブランを遥望《ようぼう》するところから、モン・ブラン通りの町名ありと聞くものから、今日の東京では駒込の富士前町だの、麹町の富士見町だのという名を保存することによって、富士山が市民の胸に蘇生しては来ないようだ。
さもあらばあれ、この山の強さは、依然我胸を圧す。この山の美しさは、恍焉《こうえん》として私を蠱惑《こわく》する。何世紀も前の過去から刻みつけられた印象は、都会という大なる集団の上にも、不可拭《ふかしょく》の焼印を押していなければならないはずだ。東京市の大きい美しさは、フッド火山を有するポートランド市の如く、レイニーア火山を高聳《こうしょう》させるシアトル市の如く、富士山を西の半空に、君臨させるところに存すると考えられる。帰朝以来の第一登山に、いずれの山谷を差しおいても、富士山へ順礼する心持になれたのも、「私たちの山」への親しみの伝統があったからである。
二 裾野の水車
本年の富士登山二回の中、第一回は大宮口から頂上をかけて、途中で泊らず、須走《すばしり》口に下山、第二回は吉田口から五合目まで馬で行き、そこの室《むろ》に一泊、御中道を北から南へと逆廻《ぎゃくまわ》りして、御殿場に下りた。大宮口の時は、友人画家茨木猪之吉君と、長男隼太郎を伴った。茨木君は途々《みちみち》腰に挟んだ矢立《やたて》から毛筆を取り出して、スケッチ画帖に水墨の写生をされた。隼太郎は、近く南アルプスに登る計画があるので、足慣らしに連れたのであった。吉田口の時は、私一人であった。馬上|悠々《ゆうゆう》、大裾野を横切ったのは、前の大宮口が徒歩(但し長坂までは自動車を借りた)であったから、変化を欲するために外ならなかった。馬上を住家とした古人の旅を思いながらも、樹下石上に眠らずに、木口新しく、畳障子《たたみしょうじ》の備わった室《むろ》とはいえない屋根の下に、楽々と足を延ばし、椎の葉に盛った飯でなく、御膳つきで食事の出来る贅沢を、山中の気分にそぐわぬと思いながらも、その便利を享楽した。
始めに大宮口を選んだのには、理由があった。大宮口は、富士登山諸道の中で、海岸に近いだけに最も低い。吉田口は大月駅から緩やかな上りで、金鳥居のところが海抜約八百メートル。御殿場町も高原の端にあって、四百五十メートルの高さになっている。須山は更に登って五百八十メートル。しかるに大宮口は、品川湾から東京の上町へでも、散歩するくらいの坂上りで、海抜僅かに百二十五メートルに過ぎない。試みに富士山の断面図を一見すると、頂上|久須志《くすし》神社から、吉田へ引き落す北口の線は、最も急にして短く、同じ頂上の銀明水《ぎんめいすい》から、胸突《むなつき》八丁の嶮《けん》を辷《すべ》って、御殿場町へと垂るみながら斜行する東口の線は、いくらか長く、頂上奥社から海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍《むしょうがい》の空をなだれ落ちる線のその悠揚さ、そのスケールの大きさ、その廷《の》んびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、およそ本邦において肉眼をもって見られ得べき限りの最大の線であろう。されば駿河湾の暖流|駛《は》しるところに近い浅間神社のほとり、※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》や、榊《さかき》や、藪肉桂《やぶにっけい》などの常緑|濶葉樹《かつようじゅ》が繁茂する暖地から、山頂近くチズゴケやハナゴケなど、寒帯の子供なる苔《こけ》類が、こびりつく地衣《ちい》帯に至るまでの間は、登山路として最も興味あるもので、手ッ取り早くいえば、一番低いところから、日本で一番高いところへ、道中する興味である。
一行の汽車は、箱根|火山彙《かざんい》を仰ぎ見て、酒匂《さかわ》川の上流に沿い、火山灰や、砂礫《されき》の堆積する駿河|小山《おやま》から、御殿場を通り越したとき、富士は、どんより曇った、重苦しい水蒸気に呑まれて、物ありげな空虚を天の一方に残しているばかり。手近の愛鷹《あしたか》山さえ、北の最高峰越前岳から、南の位牌《いはい》岳を連ぬるところの、鋸《のこぎり》の歯を立てた鋸岳や、黒岳を引っ括《くる》めて、山一杯に緑の焔《ほのお》を吐く森林が、水中の藻の揺らめくように、濃淡の藍を低い雲に織り交ぜて、遠退《とおの》くが如く近寄るが如く、浮かんでいるばかりで、輪廓も正体も握《つか》みどころがないが、裾を捌《さば》いた富士の斜線の、大地に這《は》うところ、愛鷹の麓へ落ちた線の交叉するところ、それに正面して、箱根火山の外廓が、目《め》ま苦《ぐる》しいまでの内部の小刻みを大まかに包んで、八の字状に斉整した端線を投げ掛けたところは、正に、天下の三大描線で、広々とした裾合谷《すそあいだに》の大合奏である。それらの山の裾へひろがるところの、違い棚のように段を作っている水田からは、稲の青葉を振り分けて、田から田へと落ちる水が、折からの旱天《かんてん》にも滅《め》げず、満々たる豊かさをひびかせて、富士の裾野のいかにも水々しい若さを鮮やかに印象している。私の登った北米のフッド火山は、大なる氷河が幾筋となく山頂から流れているにもかかわらず、麓の高原は乾き切って、砂埃《すなぼこり》とゴロタ石の間に栽培した柑橘《かんきつ》類の樹木が、疎《まば》らに立っているばかり。それに比べると、夏の富士は、焙烙《ほうろく》色に赭《あか》ッちゃけた焼け爛《ただ》れを剥《む》き出しにした石山であるのに、この水々しさと若さは、どうしたものであろう。殊に私を驚喜させた
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