のは、その水田に臼《うす》づくところの、藁屋《わらや》の蔭の水車であった。
『近世画家論』第四巻で、山岳を讃美したジョン・ラスキン先生は、一方において、セント・ジョルジ・ギルドの創立者であるが、すべての工業はその動力を風と水とに借るべきであると力説せられた。彼は水力電気を予想しなかった上に、最も蒸汽の力を借ることを憎んだ。彼に取って風景は、単に眼に訴える快感、その物のために価値があったのだ。沙漠の水は画的であると共に、富の源流でもあった。美と利とは一致さすべきものであった。しかし今はどうだ。正しく風に動力を借りるオランダ低地の風車は美でもあり、経済的でもあったろうが、レムブラントの名手に油絵、またはエッチングに取り入れられたあの風車の風景も、近来は電気工業に取って代られ、引き合わないために、風車はだんだん取り毀《こぼ》たれ、オランダ風物の代表は、全く失われんとしているとも聞いた。それだのに富士の裾野の水車は、水辺に夕暮の淡い色を滲《に》じみ出した紫陽花《あじさい》の一と群れに交わって、丸裸のまま、ギイギイ声を立て、田から田へ忙《せわ》しく水を配ばり、米を研《と》ぎ、材木を挽《ひ》いたりして、精を出して働いている。この辺の人が、セント・ジョルジ・ギルドの人たちのように、糸車を挽いて、木綿を手織《たお》って衣《き》ているかどうかを知らないが、風呂の水も、雑用の水も、熔岩の下から湧《わ》く渓河《たにがわ》から汲み上げて、富士の高根の雪解の水と雨水との恩恵の下に、等分に生きていることを思うと、富士の裾野の水々しさに、一倍の意義があると思われる。しかもその水車風景は、コンスターブルの油絵で見たものとは遠く、小林清親が水彩画から新工夫をして描き上げた、富士を背景とした静岡竜宝山の水車風景の版画(明治十三年版)の方が、ぴたりと胸に来た。
 車中の一行は、明朝の登山を控えて、「この雲では山は雨かな」と心配すれば、「なあに、雲は低いですよ、すっぽり抜けると、上はカラカラの上天気ですよ」などといい合った。汽車は電燈のちらつくころ、富士駅に着いた。朝日支局の大山為嗣さんに迎えられて、大宮まで自動車を走らせた。

    三 大宮と吉田

 東から南へと、富士を四分の一ばかりめぐっても、水々しい裾野はついて廻った。大宮町への道も、玉を転がす里の小川に沿うてゆく、耳から眼から、涼しい風が吹き抜ける。その水は、御手洗《みたらし》川であった。旅館梅月へ着く。割烹《かっぽう》を兼ねた宿屋で、三層の高楼は、林泉の上に聳《そび》え、御手洗川の源、湧玉池に枕《ちん》しているから、下の座敷からは、一投足の労で、口をそそぎ手が洗える。どこかの家から、絃歌《げんか》の声が水面を渡って、宇治川のお茶屋にでも、遊んでいるような気がする。恐らく富士山麓の宿屋としては、北の精進《しょうじ》ホテル以外において、もっとも景勝の地を占めたものであろう。池は浅間《せんげん》大社のうしろの熔岩塊、神立山の麓から噴き出る水がたたえたもので、社の神橋の下をすみ切って流れる水は、夜目にも冷徹して、水底の細石までが、うろこが生えて、魚に化けそうだ。金魚藻《きんぎょも》、梅鉢藻《うめばちも》だのという水草が、女の髪の毛のようになびいている中を、子供たちが泳いでいる。明朝の登山準備を頼んで、宿の浴衣《ゆかた》を引っかけたまま、細長い町を散歩する。女学生の登山隊が、百人ほど、町の宿屋にいるのだそうで、チンチクリンの男の浴衣を、間に合せに着て、歩いているのもある。宿屋の店頭《みせさき》には、かがり火をたき、白木の金剛杖をたばに組んで、縄でくくり、往来に突きだしてある。やはり「山」で生活している町の気分がする。
 それよりも、大宮町になくてかなわぬものは浅間神社である。流鏑馬《やぶさめ》を行ったというかなりに幅のある馬場の両側に、糸垂《しだれ》桜だそうなが、桜の老樹が立ち並び、蛍の青い光りが、すいすいとやみを縫って行く間を、朱塗りの楼門に入れば、五間四方あるという向入母屋造《むこういりもやづくり》の拝殿があり、その奥には浅間造なる建築上の一つの形を作ったところの、本殿の二重楼閣が、流るる如き優美なる曲線の屋根に反《そ》りを打たせ、一天の白露を受けて冴《さ》えかえり、大野原から来る秋の冷気は、身にしむばかり、朱欄丹階《しゅらんたんかい》は、よしあったところで、おぼろげな提燈《ちょうちん》の光りで、夜目にも見えないが、一千一百年以前からあったという古神社を継承した建築の、奥底に持つ深秘の力は、いかにも富士の本宮として、人類が額《ぬか》ずくべき御堂を保ち得たことを喜ぶばかり。神さびた境内にたたずんで、夜山をかけた参詣の道者が、神前に額ずいての拍手《かしわで》を聞きながら、「日本の山には、名工の建築があるからいいなあ」と思った。まして大宮浅間の噴泉の美は、何とであろう、磨きあげた大理石の楼閣台※[#「木+射」、第3水準1−85−92]《ろうかくだいしゃ》も、その庭苑《ていえん》に噴泉がなかったら、頓《とみ》に寂寞《せきばく》を感ずるであろう。富士の白雪のもたらす噴泉美は、シャスタ火山あたりにないでもないが、富士の水の滾々《こんこん》として、無尽蔵なるにおよばない。シエラ・ネヴァダの連峰が概して富士山を抜くこと、二千尺の高さがあっても、カスケード火山に、氷河脈が寒剣をきらめかせていても、小社一つ建たず、石塔一つないではないか。それに反して、日本の山々は、富士、白山、立山、三|禅定《ぜんじょう》の神社はいうも更なり、日本北アルプスの槍ヶ岳や常念岳の連山にしてからが、石垣を積み、櫓《やぐら》をあげ、層々たる天主閣をそびやかした松本城を前景に加うることなしに、人間味と原始味の併行した美しさを高めることは出来ない。木曾川を下って、白帝城に擬せられた犬山城があるために、日本ラインの名を、(好むにせよ、好まざるにせよ)いかに適切にひびかせるであろう。
 その名工の建築を懐かしむ想いは、再度の富士旅行に、吉田の宿に足をとめた時に、更に新しくさせられた。私が吉田へ着いた時は午《ひる》を過ぎていた。どの宿という心当りもなかったが、無作法なる宿引きが、電車の中の客席へ割り込んで、あまりにツベコベと、一つの宿屋を吹聴するので、宿引の来ない宿屋にゆくに限ると決め、電車の窓から投げ込まれた引札の中から選り取って、大外河《おおとがわ》を姓とする芙蓉閣なる宿屋へ、昼飯を食べに入った。この宿の中には建久館と称する七百三十年も前の古家が、取《とり》いれられている趣であるが、玄関には登山用の糸立《いとだて》、菅笠《すげがさ》、金剛杖など散らばっている上に、一段高く奥まったところに甲冑《かっちゅう》が飾ってあり、曾我の討入にでも用いそうな芝居の小道具然たる刺叉《さすまた》、袖がらみ、錆槍《さびやり》、そのほか種ヶ島の鉄砲など、中世紀の武器遺物が飾ってあるのを尻目にかけて、二階に上り、雲に包まれた富士と向き合って、ボソボソした冷飯を、味のない刺身で二杯かッ込み、番頭に頼んで、二階下の建久館なるものを案内してもらったが、奥庭に面した普通の客座敷で、ただ戸棚や、天井板などに色の黒ッぽくくすんだ、時代の解らぬ古木が使ってあるのと、そのころは一切|鉋《かんな》を用いず、チョウナを使って削ったのだという、荒削りのあとに、古い時代のおのずからなる持味《もちあじ》がうかがわれただけだ。引札の説明では、建久四年、頼朝富士裾野、牧狩の時の仮家《かりや》を、同家の先祖、大外河美濃守がもらい受けて住家として、旧吉田の郷《ごう》に置いたのを、元亀三年、上吉田の本町に移し、慶長十五年、更に現在のところに転じたのだそうで、吉田にたびたび火災はあっても、不思議に建久館だけは、焼け残ったという話であるが、その黒く光った板だけが、古代動物の肉の腐蝕し去った後の骨枠のように、残存しているだけで、果して建久の遺物であるか否を私には極めようもないが、室《へや》には文久元年、萩園主人千浪という人が、祝大外河美濃守という建物の由来を書いた扁額《へんがく》がかけてあった。それと隣って、一段高く梯子段《はしごだん》を上ったところに、浅間神社を勧請した離屋《はなれや》が、一屋建ててあり、紀伊殿御祈願所の木札や、文化年間にあげたという、太々神楽《だいだいかぐら》の額や、天保四年と記した中山道深谷宿、近江屋某の青銭をちりばめた奉納額などがあった。そこから廻り縁になって、別の一室にも、槍、薙刀《なぎなた》、鉄砲などが「なげし」にかけられて、山東京伝《さんとうきょうでん》的|草艸紙《くさぞうし》興味を味わせるのに十分であった。
 室へ戻って、友人にハガキを書いていると、富士の雲が引いて取ったように幕を明け、銀磨きの万年雪が、巨獣の斑紋《はんもん》のように二筋三筋キラリと光って、夏の富士にして始めて見るところの、威嚇《いかく》的な紫色が、抜打《ぬきうち》に稲妻でもひらめかしそうに、うつぼつと眉に迫って来る。「夕立気味あり」と書いてハガキを伏せたが、ほんとうに後になって思い知った。
 頼んだ強力《ごうりき》のくるまで、欄干によって庭を見ている。枝振りのいい松に、頭を五分がりにした、丸々しいツツジや、梅などで囲んだ小池があって、筧《かけひ》からの水がいきおい込んで落ちている。ことしの春遊んだ吉野山中の宿坊に似た庭景色だと思うが、あの色つやのいい青苔と、座敷一杯に舞い込む霧のわびしさは、およぶべくもない。

    四 富士浅間神社

 浅間神社の後《うしろ》からならでは、出すまじき馬を、番頭が気を利《き》かして、宿まで馬士《まご》にひかせて来てくれたが、私はやはり、参詣を済ませてから乗りたいため、馬を社後まで戻させ、手軽なリュックサックを提《さ》げて町を歩きだした。さすがに上吉田は、明藤開山《めいとうかいざん》、藤原|角行《かくぎょう》(天文十年―正保三年)が開拓して、食行身禄《じきぎょうみろく》(寛文十一年―享保十八年)が中興した登山口だけあって、旧|御師《おし》町らしいと思わせる名が、筆太にしたためた二尺大の表札の上に読まれる、大文司《だいもんじ》、仙元房《せんげんぼう》、大注連《おおしめ》、小菊、中雁丸《なかがんまる》、元祖|身禄宿坊《みろくしゅくぼう》、そういった名が、次ぎ次ぎに目をひく。宿坊の造りは一定していないが、往還から少し引ッ込んだ門構えに注連《しめ》を張り、あるいは幔幕《まんまく》をめぐらせ、奥まった玄関に式台作りで、どうかすると、門前に古い年号を刻み入れた頂上三十三度石などが立っている。芭蕉翁に、一夜の宿をまいらせたくもある。
 みやげ、印伝、水晶だの、百草《ひゃくそう》だのを売ってる町家に交って、朴《ぼく》にして勁《けい》なる富士道者の木彫人形を並べてあるのが目についた。近寄って見たら、小杉未醒原作、農民美術と立札してあった。小流れを門前に控えたどこかの家の周りには、ひまわりの花が黄色い焔《ほのお》を吐いている。この花の放つ香気には、何となしに日射病の悩みが思われる。
 町は、絶えず山から下りる人、登る人で賑わっている。さすがに、アルプス仕立の羽の帽子を冠《かぶ》ったり、ピッケルを担《かつ》いだりしたのは少ないが、錫杖《しゃくじょう》を打ち鳴らす修験者、継《つ》ぎはぎをした白衣の背におひずる[#「おひずる」はママ]を覆《かぶ》せ、御中道大行大願成就、大先達某勧之などとしたため、朱印をベタ押しにしたのを着込んで、その上に白たすきをあや取り、白の手甲に、渋塗《しぶぬ》りの素足を露《あら》わにだした山羊《やぎ》ひげの翁《おきな》など、日本アルプスや、米国あたりの山登りには見られない風俗である。大和大峰いりのほら貝は聞えないが、町から野、野から山へと、秋草をわたり、落葉松《からまつ》の枯木をからんで、涼しくなる鈴の音は、往《おう》さ来《きる》さの白衣の菅笠や金剛杖に伴って、いかに富士登山を、絵巻物に仕立てることであろうか。行者と修験者の山なる点において、富士と木曾御嶽は、日本の山岳のう
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