ちで、ユニークな位置を占めていると思う。その上、同じ登山口でも、御殿場は停車場町であって、宿場ではない。須走《すばしり》は鎌倉街道ではあるが、山の坊という感じで、浅間《あさま》山麓の沓掛《くつかけ》や追分《おいわけ》のような、街道筋の宿駅とは違ったところがある。吉田だけは、江戸時代から、郡内の甲斐絹《かいき》の本場を控えて、旅人の交通が繁かっただけあって、山の坊のさびしさが漂うと共に、宿場の賑わいをも兼ねて見られる。
 裾野の草が、人の軒下にはみ出るさびしい町外れとなって、板びさしの突き出た、まん幕の張りめぐらされた木造|小舎《ごや》に、扶桑《ふそう》本社と標札がある。扶桑講を講中としているところの、富士崇拝教の本殿である。講中でこそないが、私も富士崇拝者の一人として、黙礼をして、浅間《せんげん》本社へと足を運んだ。
 一歩境内に踏みいると、乱雑なる町家から仕切られて、吉野山の杉林を見るような、幽邃《ゆうすい》なる杉並木が、富士の女神にさす背光を、支持する大柱であるかの如く、大鳥居まで直線の路をはさんで、森厳に行列している。その前列の石燈籠《いしどうろう》は、さまで古いものとは思われないが、六角形の笠石だけは、奈良の元興寺《がんごうじ》形に似たもので、掌《たなごころ》を半開にしたように、指が浅い巻き方をしている。瓦屋根の覆《おお》いを冠った朱塗の大鳥居には、良恕《りょうじょ》法親王の筆と知られた、名高い「三国第一山」の額が架かってある。鳥居は六十一年目に立て替える定めだそうで、今のは二十七回だと、立札がしてあるが、そんなことはどうでもいい。登山者の眼中には、金剛不壊《こんごうふえ》の山の本体の前に、永久性の大鳥居がただ一つあるばかりだ。神楽殿《かぐらでん》の傍《かたわら》には、周囲六丈四尺、根廻りは二丈八尺、と測られた神代杉がそそり立って、割合に背丈は高くないけれど、一つ一つの年輪に、山の歴史の秘密をこめて、年代の威厳が作り出す色づけと輪廓づけを、神さびた境内の空気に行《ゆき》わたらせている。
 この吉田口の大社は、大宮口の浅間本社と比較して建築学上、いずれが価値ある築造物であるかを、私は知らないが、大宮口は、山の社であると共に、町の神社で、町民の集団生活と接触するところに、その美しい調和力と親和力が見られるのに対して、吉田の浅間社は、礎石《いしずえ》をすえた位置が、町から幾分か離れて、大裾野のひろがり始めるところに存するだけ、構図の取り方が一層大きく、三里の草原を隔てて、富士につながる奔放さは、位置の取り方が一倍と広く、社殿そのものも、天空高く浄《きよ》められたる久遠《くおん》の像と、女神の端厳相《たんげんそう》を仮現《かげん》する山の美しさを、十分意図にいれ、裏門からの参詣道を、これに南面させて、人類の恭敬を表示したところの、信条的構造と見られる、建築の手法、細故《さいこ》のテクニックにわたっての是非は知らず、楼門廻廊の直線と曲線が、あるいは並び下り、あるいは起き伏すうねりにつれて、丹碧《たんぺき》剥落《はくらく》したりとはいえ、燦然《さんぜん》たり、赫焉《かくえん》たるに対面して、私はここでもくりかえしていう、「日本の山は、名工の建築があるからいいなあ」と。
 ところで一体、富士の神を浅間《せんげん》と呼ぶのは、どうしたわけであろうか。富士の権現は信濃の国|浅間《あさま》大神と、一神両座の垂迹《すいじゃく》と信ぜられていたところから、浅間菩薩《せんげんぼさつ》ともいい、富士|浅間《せんげん》菩薩とも呼んだりしたが、本元の浅間《あさま》山の方は、一の鳥居があるだけで、御神体は、山そのものに宿るとしてあるから、神社の鎮座がない。富士の登山諸道に、壮麗な神社があるのと対照して、これはこれ、あれはあれでいいと思う。

    五 旅人の「山」

 万坊ヶ原の一本松は、暁の暗《やみ》に隠れた、那須野ヶ原あたりの開墾地にありそうな、板葺小舎《いたぶきごや》から、かんがりと燈《ひ》がさす。月見草の花が白い、カケス畑を知らぬ間に過ぎて、自動車はスケッチ帳入りの小嚢《しょうのう》を手に下げた茨木君と私と長男隼太郎外、強力《ごうりき》一人を大野原に吐き出して、見送りのため同乗せられた大山さんと、梅月の主人をさらって、影を没してしまう。暁の空に大宮表口の裾野原は、うす紙をはがすように目がさめる。ホトトギスがしきりになく。富士のさばいた裳裾《もすそ》が、斜《ななめ》がちな大原に引く境い目に、光といわんには弱いほどの、一線の薄明りが横ざまにさす。正面を向いた富士は、平べッたくなって、塔形にすわりがいい。ただ剣ヶ峰の頂のみが、槍のように際立ってとがって見える。雲は野火の煙の低迷する如く、富士の胴中を幅びろに斜断して、残んの月の淡い空に竜巻している、うぐいすのなく音《ね》も交《まじ》る。武蔵野に見るような黒土を踏んで、うら若いひのきの植林が、一と塊まりに寄り添っている、私たちの足許には釣鐘《つりがね》草、萩、擬宝珠《ぎぼうしゅ》、木楡《われもこう》が咲く。瑠璃《るり》色の松虫草と、大原の水分を一杯に吸い込んで、ふくらんだような桔梗《ききょう》のつぼみからは、秋が立ち初《そ》めている。秋の野になくてかなわぬすすきと女郎花《おみなえし》は、うら盆《ぼん》のお精霊《しょうりょう》に捧げられるために生れて来たように、涙もろくひょろりと立っている。
 仰げば朝焼けで、一天が燃えている。夕焼のように混濁した朱でなくて、聖《きよ》くて朗らかな火である。富士の斜面のヒダは、均整せられて、端然たる中にも、その高いところは光を強く受けて、浮彫につまみ上り、低い裂け目には暗い影が漂っている。全体としては、素焼の陶器の雅味《がみ》である。富士が小さく見えるのもこれだ。表裏に廻り、左右から見直しても、「あなたこなたも同じ姿」の八字の輪廓と、円錐の形式とは、連嶺構造の山と、鋭利に切り込まれた深谷を見た目からは、浅いものに見せるかも知れぬ。だがそれは、大裾野を忘れているからだ。裾野は富士の物だ、富士のものを富士に返して、東海の浜にまで引き下《さが》り、さて仰いで見たまえ。それから数十里の裾野を、曲馬の馬が、同じ円周を駆けめぐるように、廻って見たまえ。それこそ富士という彫刻品の、線と面の回転だ、そこに驚くべき変化と偉大さを発見するだろう。
 あるいは一歩さかのぼって、裾野がいまだ生成しないうち、富士と、愛鷹と、箱根が、陥没地帯の大海原に、火山島のように煙を吐いて、浮かんでいたところを想像すれば、今日の豆南諸島の大島、利島、三宅島などが、鋪石《ほせき》のように大洋に置かれているのと似て、更に大規模なる山海の布置を構成するであろう。今のような裾野となって、富士の登山が一しお悦《よろこ》ばれるのは、絨氈を布《し》く緑青の草と、湿分を放散する豊富な濶葉《かつよう》樹林とにあろう。旅人がアンデスの登山を悦ぶのは、麓が永久の春であるからだそうだが、山の天国は、発達した裾野を有するところの、富士火山帯に多くあらねばならない。それから山の全裸体像として、線や、光や、影や、円味やを研究するのに、富士ぐらい秘密を許してくれる山はあるまい。縦横はもとより、富士ばかりは恐らく螺旋《らせん》状にでも上れよう。結局富士は、探検家の山でなくて、女でも、子供でも、老人でも、心|易《やす》く登れる全人類の山だ。殊に旅人の山だ。私も旅人として富士を讃美する。

 アルプスの美を、知覚的に讃美したのは、スイスの農夫でなくて、旅人であった如くに、富土山もそうであった。「天地《あめつち》のわかれし時ゆ、神さびて」と歌った山辺赤人《やまべのあかひと》は旅人であった。太刀《たち》持つ童《わらべ》、馬の口取り、仕丁《しちょう》どもを召連れ、馬上|袖《そで》をからんで「時知らぬ山は富士の根」と詠じた情熱の詩人|在原業平《ありわらのなりひら》も、流竄《りゅうざん》の途中に富士を見たのであった。墨染《すみぞめ》の衣を着た坊さんが、網代笠《あじろがさ》を片手に杖ついて、富士に向って休息しているとすれば、問わずして富士見|西行《さいぎょう》なることを知る。富士くらい大詩人を持った山が、地球上のどこに存在しているだろう。名もない一遊子ではあるけれど、私も幼い時から、富士の影を浴びて、武蔵相模で育った一児童として、永い間の外国生活から、故国へ放還された一旅人として、親友と、子供と、忠実なる案内者とに囲まれて、今富士の膝下《ひざもと》へ来て亡き母の顔に見《まみ》えまつるが如く、しみじみと見ているのだ。
 今にも大野原の上を、自由に飛翔しようとする大鳥が羽翼を収めて、暫く休息している姿勢を、富士は取っている。空気は頬一杯に吹かれてビードロのように、薄青い光を含んで流動している。そして野も、山も、森も、朝の光線にひたって、ああ光ほど不思議な現像液はあるまい。幻からはっきりと、物体のつかめる現実の世界となった。

    六 富士の古道

 この前に来たときは、裾野の路という路は、馬力のわだちのあとで、松葉つなぎにこんぐらがり、太く細く、土が掘れたり、盛り上ったりして、行人を迷わせたところに、裾野らしい特色があったが、今は本街道然たる、一筋路が、劃然《かくぜん》と引かれて、迷いようもなくなった。
 一合から一合五|勺《しゃく》の休み茶屋、そこを出ると、雲の海は下になって、天子《てんし》ヶ岳の一脈、その次に早川連巓の一線、最後に赤石山系の大屏風《だいびょうぶ》が、立て列《つら》なっている。富士の噴出する前から、そこに居並んで、もっとも若い富士が、おどろくべく大きく生長して、頭抜《ずぬ》けてくるのを見つめていた山たちである。今後もそうやって見守っているであろう。富士山中で、大宮口の森林として、もっとも名高いモミ、ツガ、ナラ、モミジ、ブナなどの、夏なお寒い喬木《きょうぼく》帯を通過する。三合目の茗荷谷の小舎では、かけひの水が涼しかった、三合五勺では、名産万年雪を売っている。山の中で、雪を売るということが、一方の室《むろ》で、シトロンやミルクキャラメルを売っているのに対して、いかにも原始的で、室でやりそうな商いではないか。三合五勺を出外《ではず》れると、定規でも当てがってブチきったように、森林が脚下《あしもと》に落ち込んで、眼の前には黒砂の焼山が大斜行する。虎杖《いたどり》や去年の実を結んだままのハマナシ(コケモモ)が、砂の上にしがみついている。すんだ空は息吹がかかったように、サッと曇って、今までどこにいたろうと思われる霧がかかる。木山と石山の境は、やがて白明と暗霧の境界線であった。
 四合目となると、室も今までのように木造でなく、石を積み重ねた堡塁《ほうるい》式の石室となる。海抜二千四百五十米、寒暖計六十二度、ここで大宮口の旧道と、一つになるのだと強力《ごうりき》はいう。
 私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ、陰にして密なる喬木帯のモミやツガから、ぶら下る長いサルオガセ、濃い緑の蘚苔《せんたい》類と混生する大久保|羊歯《しだ》の茂り具合などは、まだ目に残っている。そればかりではない、足利時代の『鷹筑波集』からも、猿楽《さるがく》狂言からも、また貞徳《ていとく》の「独吟百韻」からも、富士|詣《もうで》の群衆のざわめきは、手に取るように聞えるが、それらの参詣者は、皆この村山口を取ったものであるらしい。今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口という
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング