限りの最大の線であろう。されば駿河湾の暖流|駛《は》しるところに近い浅間神社のほとり、※[#「木+解」、第3水準1−86−22]《かしわ》や、榊《さかき》や、藪肉桂《やぶにっけい》などの常緑|濶葉樹《かつようじゅ》が繁茂する暖地から、山頂近くチズゴケやハナゴケなど、寒帯の子供なる苔《こけ》類が、こびりつく地衣《ちい》帯に至るまでの間は、登山路として最も興味あるもので、手ッ取り早くいえば、一番低いところから、日本で一番高いところへ、道中する興味である。
 一行の汽車は、箱根|火山彙《かざんい》を仰ぎ見て、酒匂《さかわ》川の上流に沿い、火山灰や、砂礫《されき》の堆積する駿河|小山《おやま》から、御殿場を通り越したとき、富士は、どんより曇った、重苦しい水蒸気に呑まれて、物ありげな空虚を天の一方に残しているばかり。手近の愛鷹《あしたか》山さえ、北の最高峰越前岳から、南の位牌《いはい》岳を連ぬるところの、鋸《のこぎり》の歯を立てた鋸岳や、黒岳を引っ括《くる》めて、山一杯に緑の焔《ほのお》を吐く森林が、水中の藻の揺らめくように、濃淡の藍を低い雲に織り交ぜて、遠退《とおの》くが如く近寄るが如く、浮かんでいるばかりで、輪廓も正体も握《つか》みどころがないが、裾を捌《さば》いた富士の斜線の、大地に這《は》うところ、愛鷹の麓へ落ちた線の交叉するところ、それに正面して、箱根火山の外廓が、目《め》ま苦《ぐる》しいまでの内部の小刻みを大まかに包んで、八の字状に斉整した端線を投げ掛けたところは、正に、天下の三大描線で、広々とした裾合谷《すそあいだに》の大合奏である。それらの山の裾へひろがるところの、違い棚のように段を作っている水田からは、稲の青葉を振り分けて、田から田へと落ちる水が、折からの旱天《かんてん》にも滅《め》げず、満々たる豊かさをひびかせて、富士の裾野のいかにも水々しい若さを鮮やかに印象している。私の登った北米のフッド火山は、大なる氷河が幾筋となく山頂から流れているにもかかわらず、麓の高原は乾き切って、砂埃《すなぼこり》とゴロタ石の間に栽培した柑橘《かんきつ》類の樹木が、疎《まば》らに立っているばかり。それに比べると、夏の富士は、焙烙《ほうろく》色に赭《あか》ッちゃけた焼け爛《ただ》れを剥《む》き出しにした石山であるのに、この水々しさと若さは、どうしたものであろう。殊に私を驚喜させたのは、その水田に臼《うす》づくところの、藁屋《わらや》の蔭の水車であった。
『近世画家論』第四巻で、山岳を讃美したジョン・ラスキン先生は、一方において、セント・ジョルジ・ギルドの創立者であるが、すべての工業はその動力を風と水とに借るべきであると力説せられた。彼は水力電気を予想しなかった上に、最も蒸汽の力を借ることを憎んだ。彼に取って風景は、単に眼に訴える快感、その物のために価値があったのだ。沙漠の水は画的であると共に、富の源流でもあった。美と利とは一致さすべきものであった。しかし今はどうだ。正しく風に動力を借りるオランダ低地の風車は美でもあり、経済的でもあったろうが、レムブラントの名手に油絵、またはエッチングに取り入れられたあの風車の風景も、近来は電気工業に取って代られ、引き合わないために、風車はだんだん取り毀《こぼ》たれ、オランダ風物の代表は、全く失われんとしているとも聞いた。それだのに富士の裾野の水車は、水辺に夕暮の淡い色を滲《に》じみ出した紫陽花《あじさい》の一と群れに交わって、丸裸のまま、ギイギイ声を立て、田から田へ忙《せわ》しく水を配ばり、米を研《と》ぎ、材木を挽《ひ》いたりして、精を出して働いている。この辺の人が、セント・ジョルジ・ギルドの人たちのように、糸車を挽いて、木綿を手織《たお》って衣《き》ているかどうかを知らないが、風呂の水も、雑用の水も、熔岩の下から湧《わ》く渓河《たにがわ》から汲み上げて、富士の高根の雪解の水と雨水との恩恵の下に、等分に生きていることを思うと、富士の裾野の水々しさに、一倍の意義があると思われる。しかもその水車風景は、コンスターブルの油絵で見たものとは遠く、小林清親が水彩画から新工夫をして描き上げた、富士を背景とした静岡竜宝山の水車風景の版画(明治十三年版)の方が、ぴたりと胸に来た。
 車中の一行は、明朝の登山を控えて、「この雲では山は雨かな」と心配すれば、「なあに、雲は低いですよ、すっぽり抜けると、上はカラカラの上天気ですよ」などといい合った。汽車は電燈のちらつくころ、富士駅に着いた。朝日支局の大山為嗣さんに迎えられて、大宮まで自動車を走らせた。

    三 大宮と吉田

 東から南へと、富士を四分の一ばかりめぐっても、水々しい裾野はついて廻った。大宮町への道も、玉を転がす里の小川に沿うてゆく、耳から眼から、涼しい風が吹き
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