『富嶽百景』三巻、『富嶽三十六景』四十六枚が、いかに江戸と、その市民の生活と、富士山とを結びつけているか、いかに世界的版画の名作として、日本をフジヤマの国として、高名ならしめたかは今更説くまでもなかろう。
市民の生活といっても、当時交通不便にして、富士登山が容易でなかったために、旧暦の六月|朔日《ついたち》には、市中と郊外にある富士山の形に擬《なぞら》えた小富士や、富士権現を勧請《かんじょう》した小社に、市民が陸続参詣した。駒込の富士から神田明神、深川八幡の境内、鉄砲洲《てっぽうず》の稲荷、目黒|行人坂《ぎょうにんざか》などが、その主なる場所であった、がそれも、今ではお伽噺《とぎばなし》になってしまった。碁盤の目ほどに窓の多いデパートメント、タンクを伏せたように重っ苦しい大屋根、長方形の箱を、手品師の手際で累積したようなアメリカ式鉄筋コンクリートの高層築造物は、垂直の圧力を通行人の頭上に加えて虚空の「通せん坊」をしあっている。人の眼も昇降機の如く、鋭角を追うて一気に上下すれば、建物と建物との間にはさまって、帯のように狭くなった天空は、ニューヨークの株屋が活動するウォール・ストリートあたりを見るような天空深淵を、下から上へとのぞかせている。建物が高くなるほど、富士が見えなくなり、交通が便利で、東京富士間の距離が短縮されるほど、市民の心から富士は切り取られて、さらしッ放しの無縁塔となってしまった。もはや都市経営論者からも、富士山の眺めを取り入れることによって、日本国の首府としての都会美を、高調する計画も聞かされなくなった。ゼネヴァには、アルプスの第一高峰、モン・ブランを遥望《ようぼう》するところから、モン・ブラン通りの町名ありと聞くものから、今日の東京では駒込の富士前町だの、麹町の富士見町だのという名を保存することによって、富士山が市民の胸に蘇生しては来ないようだ。
さもあらばあれ、この山の強さは、依然我胸を圧す。この山の美しさは、恍焉《こうえん》として私を蠱惑《こわく》する。何世紀も前の過去から刻みつけられた印象は、都会という大なる集団の上にも、不可拭《ふかしょく》の焼印を押していなければならないはずだ。東京市の大きい美しさは、フッド火山を有するポートランド市の如く、レイニーア火山を高聳《こうしょう》させるシアトル市の如く、富士山を西の半空に、君臨させるところに存すると考えられる。帰朝以来の第一登山に、いずれの山谷を差しおいても、富士山へ順礼する心持になれたのも、「私たちの山」への親しみの伝統があったからである。
二 裾野の水車
本年の富士登山二回の中、第一回は大宮口から頂上をかけて、途中で泊らず、須走《すばしり》口に下山、第二回は吉田口から五合目まで馬で行き、そこの室《むろ》に一泊、御中道を北から南へと逆廻《ぎゃくまわ》りして、御殿場に下りた。大宮口の時は、友人画家茨木猪之吉君と、長男隼太郎を伴った。茨木君は途々《みちみち》腰に挟んだ矢立《やたて》から毛筆を取り出して、スケッチ画帖に水墨の写生をされた。隼太郎は、近く南アルプスに登る計画があるので、足慣らしに連れたのであった。吉田口の時は、私一人であった。馬上|悠々《ゆうゆう》、大裾野を横切ったのは、前の大宮口が徒歩(但し長坂までは自動車を借りた)であったから、変化を欲するために外ならなかった。馬上を住家とした古人の旅を思いながらも、樹下石上に眠らずに、木口新しく、畳障子《たたみしょうじ》の備わった室《むろ》とはいえない屋根の下に、楽々と足を延ばし、椎の葉に盛った飯でなく、御膳つきで食事の出来る贅沢を、山中の気分にそぐわぬと思いながらも、その便利を享楽した。
始めに大宮口を選んだのには、理由があった。大宮口は、富士登山諸道の中で、海岸に近いだけに最も低い。吉田口は大月駅から緩やかな上りで、金鳥居のところが海抜約八百メートル。御殿場町も高原の端にあって、四百五十メートルの高さになっている。須山は更に登って五百八十メートル。しかるに大宮口は、品川湾から東京の上町へでも、散歩するくらいの坂上りで、海抜僅かに百二十五メートルに過ぎない。試みに富士山の断面図を一見すると、頂上|久須志《くすし》神社から、吉田へ引き落す北口の線は、最も急にして短く、同じ頂上の銀明水《ぎんめいすい》から、胸突《むなつき》八丁の嶮《けん》を辷《すべ》って、御殿場町へと垂るみながら斜行する東口の線は、いくらか長く、頂上奥社から海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍《むしょうがい》の空をなだれ落ちる線のその悠揚さ、そのスケールの大きさ、その廷《の》んびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、およそ本邦において肉眼をもって見られ得べき
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