抜ける。その水は、御手洗《みたらし》川であった。旅館梅月へ着く。割烹《かっぽう》を兼ねた宿屋で、三層の高楼は、林泉の上に聳《そび》え、御手洗川の源、湧玉池に枕《ちん》しているから、下の座敷からは、一投足の労で、口をそそぎ手が洗える。どこかの家から、絃歌《げんか》の声が水面を渡って、宇治川のお茶屋にでも、遊んでいるような気がする。恐らく富士山麓の宿屋としては、北の精進《しょうじ》ホテル以外において、もっとも景勝の地を占めたものであろう。池は浅間《せんげん》大社のうしろの熔岩塊、神立山の麓から噴き出る水がたたえたもので、社の神橋の下をすみ切って流れる水は、夜目にも冷徹して、水底の細石までが、うろこが生えて、魚に化けそうだ。金魚藻《きんぎょも》、梅鉢藻《うめばちも》だのという水草が、女の髪の毛のようになびいている中を、子供たちが泳いでいる。明朝の登山準備を頼んで、宿の浴衣《ゆかた》を引っかけたまま、細長い町を散歩する。女学生の登山隊が、百人ほど、町の宿屋にいるのだそうで、チンチクリンの男の浴衣を、間に合せに着て、歩いているのもある。宿屋の店頭《みせさき》には、かがり火をたき、白木の金剛杖をたばに組んで、縄でくくり、往来に突きだしてある。やはり「山」で生活している町の気分がする。
それよりも、大宮町になくてかなわぬものは浅間神社である。流鏑馬《やぶさめ》を行ったというかなりに幅のある馬場の両側に、糸垂《しだれ》桜だそうなが、桜の老樹が立ち並び、蛍の青い光りが、すいすいとやみを縫って行く間を、朱塗りの楼門に入れば、五間四方あるという向入母屋造《むこういりもやづくり》の拝殿があり、その奥には浅間造なる建築上の一つの形を作ったところの、本殿の二重楼閣が、流るる如き優美なる曲線の屋根に反《そ》りを打たせ、一天の白露を受けて冴《さ》えかえり、大野原から来る秋の冷気は、身にしむばかり、朱欄丹階《しゅらんたんかい》は、よしあったところで、おぼろげな提燈《ちょうちん》の光りで、夜目にも見えないが、一千一百年以前からあったという古神社を継承した建築の、奥底に持つ深秘の力は、いかにも富士の本宮として、人類が額《ぬか》ずくべき御堂を保ち得たことを喜ぶばかり。神さびた境内にたたずんで、夜山をかけた参詣の道者が、神前に額ずいての拍手《かしわで》を聞きながら、「日本の山には、名工の建築があるからいいなあ」と思った。まして大宮浅間の噴泉の美は、何とであろう、磨きあげた大理石の楼閣台※[#「木+射」、第3水準1−85−92]《ろうかくだいしゃ》も、その庭苑《ていえん》に噴泉がなかったら、頓《とみ》に寂寞《せきばく》を感ずるであろう。富士の白雪のもたらす噴泉美は、シャスタ火山あたりにないでもないが、富士の水の滾々《こんこん》として、無尽蔵なるにおよばない。シエラ・ネヴァダの連峰が概して富士山を抜くこと、二千尺の高さがあっても、カスケード火山に、氷河脈が寒剣をきらめかせていても、小社一つ建たず、石塔一つないではないか。それに反して、日本の山々は、富士、白山、立山、三|禅定《ぜんじょう》の神社はいうも更なり、日本北アルプスの槍ヶ岳や常念岳の連山にしてからが、石垣を積み、櫓《やぐら》をあげ、層々たる天主閣をそびやかした松本城を前景に加うることなしに、人間味と原始味の併行した美しさを高めることは出来ない。木曾川を下って、白帝城に擬せられた犬山城があるために、日本ラインの名を、(好むにせよ、好まざるにせよ)いかに適切にひびかせるであろう。
その名工の建築を懐かしむ想いは、再度の富士旅行に、吉田の宿に足をとめた時に、更に新しくさせられた。私が吉田へ着いた時は午《ひる》を過ぎていた。どの宿という心当りもなかったが、無作法なる宿引きが、電車の中の客席へ割り込んで、あまりにツベコベと、一つの宿屋を吹聴するので、宿引の来ない宿屋にゆくに限ると決め、電車の窓から投げ込まれた引札の中から選り取って、大外河《おおとがわ》を姓とする芙蓉閣なる宿屋へ、昼飯を食べに入った。この宿の中には建久館と称する七百三十年も前の古家が、取《とり》いれられている趣であるが、玄関には登山用の糸立《いとだて》、菅笠《すげがさ》、金剛杖など散らばっている上に、一段高く奥まったところに甲冑《かっちゅう》が飾ってあり、曾我の討入にでも用いそうな芝居の小道具然たる刺叉《さすまた》、袖がらみ、錆槍《さびやり》、そのほか種ヶ島の鉄砲など、中世紀の武器遺物が飾ってあるのを尻目にかけて、二階に上り、雲に包まれた富士と向き合って、ボソボソした冷飯を、味のない刺身で二杯かッ込み、番頭に頼んで、二階下の建久館なるものを案内してもらったが、奥庭に面した普通の客座敷で、ただ戸棚や、天井板などに色の黒ッぽくくすんだ、時代の解らぬ古木が使って
前へ
次へ
全15ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小島 烏水 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング